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加古川市の根本治療専門院
鍼灸治療院きさらぎ 院長の独り言

ホームページでは伝えきれない役立つ情報、大切なメッセージ、
臨床雑話
恩知らず
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    世の中便利になった。
    便利になるにつれ、消費電力は増え、ゴミも増えている。
    そのひとつの要因は使い捨て文化。
    今や世界語ともなった「勿体ない」という精神さえ、
    捨て去ろうとしている。
    それはモノを大切にしなくなったということだ。

    100円ショップで買った割れないアクリルグラスと
    百貨店で買ったバカラのグラス。
    あなたならどちらを大切に扱うだろう。

    安物でいくらでも替えの利くものより、
    傷つきやすい、壊れやすい代わりのないものほど
    大切にするのではないだろうか。


    では、あなたの心身はどうだろう。
    いくらでも替えの利く安物だろうか。
    それともかけがえのない大切なモノだろうか。

    自分の身体は自分のものだから、
    安物のように扱っても構わない。
    悪しき生活習慣、不養生を改めようとしない人は、
    潜在的にそんな風に思っているのではないだろうか。


    『お身体を大切に』

    それは身体を甘やかせということではないだろう。
    今のあなたが「楽だ」と感じる在り方、習慣、
    患いを引き起こし、或いは増悪させる不養生を
    どうぞそのまま続けて下さいということではあるまい。

    掛け替えのない大切なものだからこそ、
    大切に扱ってくださいということだ。
    祖先父母から頂き、多くの命に支えられながら生かされている命を
    大切にしましょうということだ。


    自分の身体は自分のものであって自分だけのものではない。
    時間的にも空間的にも無限の縁に支えられて在る「私」の命は
    同時に他の誰かの命を支え、影響を与えている命でもある。
    心身の持てる潜在力を最大限に活かせるよう、
    自分の在り方に責任を持ちたいものだ。

    身体を大切にすること。
    それは生かされながら生きていることへの恩返しの第一歩。

    努々、恩知らずにはなるまいぞ。
    恩知らずのままやりすごす人生。
    そんなの勿体ないからね。




    身體髪膚。受之父母。不敢毀傷。孝之始也。
    身體髪膚  、之れを父母に受く、敢へて毀傷きしょうせざるは、孝の始なり。
                          『孝経』


    加古川の根本治療専門院  鍼灸治療院きさらぎ  http://sinq-kisaragi.net/

    | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 20:08 | comments(1) | trackbacks(0) |
    症状は友達
    0

      「症状とは憎むべきもの。」

      そんな先入観は早々に捨てることが
      健康への近道だ。


      症状とは身体からの警報であり、
      自らを治そうとする治癒力の顕現そのもの。
      心身の不調和をあなたに知らせつつ、
      調整しようと身体が働いている証にほかならない。

      ゆえに症状を憎み嫌うことは、
      治癒力自体を嫌うことであり、自分の身体を嫌うことであり、
      ひいては自分自身への信頼を失うことにつながる。


      本人に信頼されていない身体が根本的に良くなる筈はない。
      自分を信頼していない人は治療に依存的になる傾向があるが
      治すのはあなたであり、あなたの治癒力そのものだ。
      医療はどこまでもその手助けをするにすぎない。


      これは非常に大切なことなので
      ホームページにおいても再三述べているし、
      患者さんにも治療当初から折りに触れてご説明している。
      けれどなかなか誤った先入観から抜け出せない人が少なからずいる。

      遺伝性・先天性の病など一部の例外を除き、
      殆どの病や疾患の原因はあなたの中にある。
      あなたの生活習慣の中にある。

      過食・偏食やサプリメント過多などの食に関わる問題。
      立ち方・座り方・歩き方などの姿勢や身体の使い方の問題。
      考え方の癖、情緒の偏重、価値観・先入観など精神の問題。

      上記3つの生活習慣が積み重なって今のあなたがあるのであり、
      今のあなたの健康状態がある。
      症状はそれらの問題点をあなたに知らせ、
      それ以上身体の状態を悪化させないために必要があって出てきているのだ。

       

      症状を出す必要があるところまで自分の身体を追い込んだのは
      誰でもない、あなた自身にほかならない。



      症状という身体からの声に素直に耳を傾け、自分の身体への理解を深め、
      自分の中に原因があることを受け入れ、生活習慣を改善してゆくこと。
      それを養生という。

      養生あっての治療だ。
      養生なしの治療など砂上の楼閣、焼け石に水。
      日々のあなたの在り様と一回数分〜十数分の治療。
      どちらがより影響力が強いかは比べるまでもない。
      治療で整えた状態をどれだけ維持し、活かせるかは
      本人の自覚と養生にかかっている。

      これは至極当然の道理だろう。

      養生はせずに治療だけで健康になりたい。
      原因は変えずに結果だけ変えて欲しい。
      そんな道理にはずれた考えを「無理」という。


      あなたは症状自体を変えることは出来ない。
      環境を変えることも難しいだろう。
      けれど病や疾患の原因となり、

      増悪因子となる生活習慣を変えてゆくことはできる。
      そのことをよく理解し、出来ないことや現状を素直に受け入れ、
      自分に出来ることに根気よく励んで行ける人。
      症状を通し、治療を通して気づいたこと知りえたことを
      日常に活かし、医療指導を素直に守り実践される人ほど
      当然ながら身体の変化は早く、着実に良くなってゆく。


      症状を憎むこと、治療に依存的になることは
      必ずあなたを根本的治癒から遠ざけるだろう。



      あなたに危険を知らせてくれる友達を
      あなたを助けようと働いてくれている友達を大切にしよう。
      危険がなくなり、助ける必要がなくなれば
      その友達は出しゃばってはこないのだから。



      『人生は一度っきりだから
         生まれ変わるなら 生きてるうちに』
        長渕剛「人生はラララ・・・」より


      加古川の根本治療専門院  鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/
       

      | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 07:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
      鯉のぼり
      0

        本日は端午の節句。
        こいのぼりを揚げている家は少なくなったが、
        逞しく育って欲しいという願いは
        昔と変わるまい。
        けれど少々気がかりなことがある。

        当院に来院する小学生〜中学生の子供らの事だ。
        これが子供の身体かと思うほど硬い子が多いのだ。
        ストレスや病の影響によるものというより、
        成長期に身体を使いなさ過ぎた結果としての運動器の硬さだ。

        小学生になっても土踏まずが殆ど形成されていないベタ足。
        足の指が地につかない浮き指や外反母趾や内反小趾。
        足指を思うように開けない。動かせない。
        踵を揃えて足底をつけたまましゃがめない・・・etc。

        自分が子供の頃には先ず考えられなかった異常な硬さだ。
        当時も身体が硬い子はもちろんいたが、それは上記のようなことは
        皆当たり前にできることを前提としての硬さだ。

        ただ身体をよく動かしてさえいれば良いかということではない。
        スポーツを良く行っている子でも同様の症状(あえて症状と呼ぶ)を
        抱えている子は少なくない。
        競技特有の動きは出来ても当たり前に出来る筈の基本的な
        身体の使い方、多様な身体使いが出来ないということだ。

        一つは、生活様式が欧米化され、和室が減り、和式便所が減り、
        正座やしゃがむという足・膝・股・腰仙関節を深く曲げ伸ばしする
        機会が著しく少なくなって、下半身の柔軟性を自然に養うことが出来ない。

        一つは、ゲーム機などの内遊びが増え、
        治安上の問題だとか空き地など遊ぶ場の減少により、
        外遊びという身体を多様に使う遊びをしなくなったためだろう。
        外で遊ぶにせよ、平坦でない地道や田んぼ、山・川など、
        多用な動きを求められる場所ではなく、
        アスファルトや整備された公園・コートなど
        身体への負担のない単調な動きだけでやり過ごせる場でしか
        殆ど遊べていない。
        しかも、高機能なシューズが広まり、繊細に身体を使う必要性まで
        奪われてしまっている。

        そんな子供たちの身体の異様な硬さが気になっていたところ、
        NHKの「クローズアップ現代」でも
        ロコモティブ・シンドローム(運動器症候群)が
        小・中学生の間でも広がってきていると報告されていた。


        運動器症候群とは老化や運動不足による
        骨・筋・関節の弱化・硬化により、様々な動作が困難になり、
        要介護状態へつながる深刻な病だ。
        それが大人になってから起こるのではなく、
        身体を作ってゆく大切な成長期に起こっているということは
        とても深刻な状況だ。
        単に「私、身体が硬いんです」なんて笑っていられる状況ではない。

        番組の中では、転倒時にちょっと両手を着いただけで
        両手首を骨折してしまった中学生が紹介されていた。
        肩や肘や手首や指ほか身体全体を瞬間的に柔らかく、
        緊急時にも柔らかく、程よく力を抜いて身体を
        制御する感覚が育っていれば、両手首同時に骨折なんて
        先ずありえないことだ。
        骨自体の弱さもさることながら、そのような感覚自体が育っていないことが
        何より危険であり、深刻だといえる。

        筋肉や骨を鍛えたり、柔軟性を上げたりすることは鍛錬によって可能だが、
        そのような感覚自体は特に外遊びの中でしか養えないように思う。
        複雑なルールによって動きを制限されるスポーツではなく、
        鬼ごっこやかくれんぼ、以前触れた「ぼんさんが屁をこいた」など
        単純な決め事の中で、多様な場面・条件に柔軟に身体を使うこと、
        筋力のまだ発達していない、大きな怪我につながりにくいうちに、
        人とぶつかったり、転倒したりすることの中でしか
        なかなか養えないのではないだろうか。

        環境や時代のせいにしても何の解決にもならない。
        お父さん、お母さんには子供たちを内遊びに向かわせるゲーム機や
        携帯電話などを子供が喜ぶからと徒に与えずに、
        外遊びの楽しさを伝えてあげて欲しい。


        『百瀬の滝を 登りなば
         忽ち竜に なりぬべき
         わが身に似よや 男子と
         空に躍るや 鯉のぼり』
             作詞 不詳

        竜となりては天にのぼらんとも、
        まずは地をしかととらうる足をぞ望み給わんことを。


        加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/

        | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 16:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
        さくら
        0

          ずるずると名残押し気な冬が終わった途端の春爛漫。
          あっという間に満開の桜も はやハラハラと散り始めた。
          今日は小学校の入学式らしい。
          新しい制服に身を包んだ小さな子供たちの顔も
          ニコニコと満開だ。

          「花曇り 笑顔で駆け出すランドセル」


          桜は蕾の頃が好きという人がいるかと思えば、
          いやいや満開の時が良いという人もいるし、
          やっぱり散り際こその美しさでしょうという人もいる。
          新緑の桜が、という人もいるだろう。

          無論どの時期も美しいし、趣きもそれぞれ。
          人により好き好きがあって当然だ。
          けれどたとえば「散り際こそが桜だ」と
          ほかの美しさを認めないとしたらどうだろう。
          世界を狭めるだけでしかない。


          「私は気が短いから」
          「私はこうやってきたから」
          「どうせ私は・・・だから」
          「これが私らしさだから」

          そんな風に自分を限って、自分を狭めて、自分の可能性を否定しながら、
          「健康になりたい、変わりたい」と訴える方が少なくない。
          けれど自分を変えられるのは自分だけだ。
          他人が他人を変えるなんて容易なことではない。
          就中「変われやしない」「変われるはずがない」と
          思い込んでいる人を変えるのは。


          「治すのは医者や治療家の仕事であり責任。」
          そんな風に思ってはいないだろうか。
          だとしたらそれは大きな間違い。
          「治す手助けをするのが医者や治療家の為事であり責任。」なのであって、
          治すのはご本人であり、自分の心身の責任は基本的に本人が負うものだ。

          ツボ(経穴)を取り鍼をすれば身体が変化する。
          その変化は術者の力ではない。
          はりという僅かな働きかけに身体が応えてくれた証拠であり、
          患者さん本人の力以外の何ものでもない。
          薬の毒性や外科手術という侵襲的働きかけでさえ、
          それを治癒への刺激として受け止め変換するのは本人の力ではないか。

          死体に鍼をしても何も変化はしない。
          生きているからこそ治療が有効なのであり、
          医学は生きているあなたの身体への信頼の上に成り立っている。
          本人が自分の身体を信頼しなければ、
          良い治療が成り立つ筈もない。


          「授業には出ます。勉強はしません。でも成績は上げてください」。
          それは道理に外れた無茶な発想だろう。
          けれど兎角医療に対してはそのような
          不合理な期待を抱いている人は案外多いのだ。

          「治療は受けます。養生はしません。治して下さい。」
          心当たりはないだろうか。


          自分と向き合い、原因から目を逸らさない。
          医療指導や助言に耳を傾ける。
          少しづつでも養生に励む。

          それは出来ない言い訳を並べる人、
          「自分は〜だから」と
          自分への悪しき先入観に縛られている人には出来ない。
          今の自分の現状を悲観楽観に偏らず素直に受け止め、
          自ら変わろうと思える自分への信頼感なくしては
          出来ない相談だ。


          すべては縁起。
          一切は関係性の中にあり、一切は移り変わるということだ。
          縁起自体に良い悪いはない。
          良い悪いと価値判断し、とらわれ迷う心があるだけだ。

          「変われやしない」と思い込む心があっても
          何も変わらないということはなく、実際には心身は変わっている。
          より意固地でより卑屈でより窮屈なあなたに。

          慢性的にしんどいあなたが年々しんどくなるのはそのためだ。
          「何もしていないのに肩が凝る」「何もしていないのに・・・」
          何もしていないというその在り方の中に問題があることを
          見つめ改善してゆかなければ、それは塵芥のように積もり、
          あなたの心や身体を益々しんどく蝕んでゆくだろう。
          少しづつ、けれど確実に、着々と。

          「きっと変われる、変わろう」と自分を信頼することで
          あなたはきっと上手く変わってゆくことができる。
          理想のあなたに近づくことができる。
          「どうせ私は・・・」と自らを限り、信頼しないことで
          あなたは理想から遠く変わってゆくこともできる。


          すべては無常。
          可能性に満ちた世界。
          どの道を選ぶか、選ばないかは自分次第だ。



          『散る桜 残る桜も 散る桜』
                  良寛(真偽不定)


          加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/

          | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 10:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
          チューニング
          0

            『どれだけ待たせる気じゃ!!
             責任者呼んで来い!!』


            例えばあなたが食堂で
            友人やご家族と楽しい時間を過ごしている時、
            こんな怒声がいきなり聞こえてきたら、
            あなたは何を感じるだろう。

            店内の空気が一瞬で重く固まり張り詰めるのを感じるかもしれない。
            嫌な緊張が身体を強張らせ、息が詰まるのを感じるかもしれない。
            だとしたらそれは正常な反応。
            人体は怒りや争いごとに対して防御反応として身体を緊張させる。
            不快に感じて当然だ。

            店内や街中で上記のように、
            或いは半狂乱で子供に怒鳴り散らしている人は、
            自分の感情を吐き出すのに夢中で
            自分のその行為が周囲を不快にさせていることなど
            気づいてもいないだろう。

            「泣く子より怒鳴るあんたがやかましい」


            口を開けば陰口ばかりという人もいる。
            誰かの悪口を言ったり耳にしたりすることは基本的に不快なことだ。
            けれど陰口好きな人は陰口を聞いたり耳にすることが楽しく、
            ストレス発散になっている。

            陰口が嫌いな人はそんな人の傍にいるのは不快なので距離を置く。
            結果、陰口好きな人の周囲には陰口好きが集まるものだ。


            相手が迷惑して何度も止めるように忠告しても
            「自分の楽しみだから」とその迷惑行為を平気で続ける輩もいる。
            相手の苦しみより自分の楽しみが大事なのだから、もはや救いがたい。

            『己の欲せざる所、人に施すことな勿(な)かれ。』
                     論語 衛霊公第十五の二十四

            自分がされて嬉しいことでも他人にとっては嫌なことも勿論ある。


            普段耳が遠いのに自分の陰口だけは聞こえるという人もいるし、
            他人の不幸は蜜の味という悲しい御仁もいる。
            女性週刊誌やワイドショー好きという物見高い人はご用心願いたい。

            因みに当院では他人の不幸や災難、不正など論う
            女性週刊誌の類は置いていない。
            読む方の気も院の気も淀み下がり、
            治療の「場」を壊してしまうから。


            さて、怒りや悲しみ、不安や不満、怨みに嫉み、妬みに羨み・・・。
            そんな負の感情、情緒の偏重は病に繋がる。
            負の感情は身体を硬く、呼吸を浅くさせ、
            心身の不調和を招くのだから通常は不快に感じるものだが、
            その状態が当たり前になって不快と感じられていない人も少なくない。
            肩こりなどの付随症状自体を不快に感じることはあっても、
            精神的偏重自体が問題であることを自覚している方は
            意外と少ないのだ。

            結果ストレスを発散したい、解消させて欲しいとは思っても
            ストレスを受けにくい自分に生まれ変わろうという発想は乏しくなる。


            不快なものに感覚のアンテナが合ってしまっている人、
            不快であるはずのものを心地よいと感じてしまっている人。
            負の波長にばかり心が合ってしまい、
            不幸探しが習慣になっている人。
            そんな人は心の調律(チューニング)が狂ってしまっているとも言える。

            身体が改善してゆくことより、残った症状や記憶の中の症状に
            焦点が合ってしまっている人も同様に危うい心のチューニング状態。
            雑音しか入らないラジオ放送ばかり探しているようなものだ。


            バイオリンの名器ストラディバリウスでも
            狂ったチューニング状態ではどんな音楽も奏でられないように
            心身の調和を損なっている状態では、
            心身の潜在力が充分に発揮される筈もない。


            東洋医学的鍼灸治療(漢方鍼灸)は心身一如の立場を基本として、
            精神を内包する「内蔵」の調整をする治療法。
            当然精神状態にも影響を与える。
            結果、うつ状態やパニック障害などの改善はもちろん、
            イライラや不安が解消し、落ち着いた清々しい気分も訪れるし、
            抑圧していた感情が溢れだして訳も分からずひとしきり泣いた後、
            すっきりした笑顔でお帰りになる方もいる。

            けれどその後の治療経過は大きく二つに分かれる。
            自分と向き合わず、不養生を改めず、
            整えた状態を崩してまた同じ次元から治療することになる人と
            治療を通して自分と向き合い、
            改めるべきを改め、整えた状態を出来るだけ保った上で
            治療を積み重ねることで、より健康に元気になっていく人だ。


            積み重ねてゆく治療を「焼け石に水」にするかどうか。
            命を潤す水とするか、それとも不養生の尻拭いとするか。
            それはご本人の自覚と実践にかかっている。


            あなたの心はどんな波長にチューニングされているだろうか。


            加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ  http://sinq-kisaragi.net/

            | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 16:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
            ぼんさんとだるまさん
            0

              『坊(ボン)さんが〜屁ぇをこいた!』

              『こいた!』の『た!』で鬼が振り向く。
              瞬間、皆が石になる。

              「誰か動いていないか・・・」
              鬼がジッと舐るように見まわす。
              皆は息を潜めて固まっている。
              鬼が前を向きなおして、また唱え始める。
              『ボンさんが〜屁をこい〜』

              抜き足差し足忍び足。
              そろりそろりと忍び寄る。
              気取られぬよう間を詰める。
              するするすると間を盗む。

              鬼が振り向き、
              『た!』っと睨む。

              皆が一斉、石化する。
              どどっと汗が溢れだす。
              脈打つ鼓動が耳になる。
              上がった息を押し殺し、鬼の視線をやりすごす・・・。


              子供の頃によくやったこの遊び。
              『坊んさんが屁をこいた』。
              関東では『達磨さんが転んだ』と言うそうな。
              お上品なようにも聞こえるが、誰かが転ぶのを笑うより、
              屁ぇの方が罪がない。


              『は〜じ〜め〜のだい〜いっぽ!!』

              で皆が一歩進んで始まるこの遊び。
              近頃の子がこの遊びをしているのをついぞ見たことがない。
              というより駆け回って遊んでいる子供自体をあまり見かけない。
              こないだ外で子供が集まってるのを見かけたが、
              座り込んで何やらしている。
              見ると指先でピコピコやっている。
              みんな集まってピコピコしている。
              外で?みんな集まって?
              ・・・なんじゃそら・・・。

              『動け!身体動かして遊べ!』

              そう言ってやりたいところだが、よその子にそうとも言えず、どもならん。
              こんなんでええんやろか、日本は。


              さてさて侮るなかれ、この遊び。
              よく出来た遊びなのだ。

              緩急をつけて呪文を唱える鬼の思念を窺いながら、
              全身を気配無く動かしたかと思いきや
              一瞬で石像のように身を固める。
              もっと速く、もっと前へ。
              逸る衝動を抑えつつ、鬼との間合いを詰めてゆく。

              相手の心を読みながら、自分の心身を制御することが求められる、
              なかなかどうして良い遊びではないか。
              昔はそうやって知らず知らずのうちに
              遊びを通して学んだり、鍛えたりしとったんやなぁ。

              電子ゲームで五感は磨けない。
              心身を制御する力は養えない。
              考え工夫する余地もないから創造力も高まらない。
              相手の心を察する必要もない。
              安直に『リセット』出来る世界に染まってゆく。


              試しにやってみるといい。
              そろりそろりと動きつつ、一瞬で全身を固められるかどうか。

              日頃身体を左右にゆすってヨタヨタドタバタ歩いている人には
              静かに気配無く歩くこと自体が先ず難しい。
              何よりピタとは止まれまい。

              『働き』のある身体は止まることが出来る。
              『働き』のない身体は止まれない、どころかブレまくる。
              存外自分の身体は意図したようには制御できないことに気づくだろう。

              意識して動いたからこそ、そのように動けない自分に気づくことが出来る。
              意識して固まろうとしたからこそ、固まれない自分に気づけるのだ。
              実践して初めて気づけることがある。
              実践の中でしか学べない、養えないものがある。


              当院でも患者さんの状態と状況に合わせ、
              エクササイズを伝えることがある。
              その時には必ず条件をつける。
              いくつかの条件を守りつつ、身体を動かすことは
              自分の身体と向き合い理解するには最適にして近道だからだ。

              素直に条件を守って実践する人は、
              条件通りに動かない自分の身体と直面し、次回課題を持ってやってくる。
              『○○が動かないのですが、どのように意識すれば良いですか?』
              【○×▽☆※■・・・】とお応えする。
              『では、こういう場合はどうですか?』
              【×●△※□◇・・・】
              『うわ!ほんまや。こんなに変わる!
               ちょっと意識を変えただけやのに。
               身体って面白いですね!練習します!』


              実践するから課題が生まれ、課題があるから修正も出来る。
              修正ができるから次の階段を昇ることも出来る。
              そうやって主体的に養生や鍛錬に臨むことで、
              身体はどんどん変わってゆく。
              治療経過も早くなる。

              条件を守らず、自分のやりやすいようにやって
              『やったつもり』になっても良いことはない。
              自分のやりやすいやり方の積み重ねで身体を壊したことを
              忘れてはいけない。
              ダメな動きを繰り返しても
              ダメな動きがより身に染みこんでゆくだけだ。
              そして端から実践しない人は・・・・それまでのこと。


              今日から4月。新年度。
              新入生も新社会人も少々の不安を覚えつつ、
              希望に胸を膨らませてワクワクしながら家を出るのだろう。
              新しい経験の中で新しい自分を見つけてゆく。

              何かを始めるには良いこの季節。
              彼らに負けてはいられない。

              始めるものが何であれ、
              屁ぇをこいても転んでも、
              始めなければ始まらぬ。
              掛け声かけてさぁ始めよう。

              『は〜じ〜め〜の〜だい〜いっぽ!!』



              『学んで思わざれば則ち罔し(くらし)、
              思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)。』
                         論語 為政篇第二

              加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/ 

              | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 07:20 | comments(2) | trackbacks(0) |
              ノクターン
              0

                子貢曰く、
                『貧しくして諂うことなく、富みて驕ることなきは何如。』
                子曰く、
                『可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、
                 富みて礼を好むものに若かざるなり。』
                子貢曰く、
                『詩に云く。
                「切るが如く、磋くが如く、琢つが如く、磨くが如し」と。
                 それ斯れを謂うか。』
                子曰く、
                『賜や、始めて与に詩を言うべきなり。 
                  諸に往を告げて来を知るものなり。』
                                  論語 学而篇 第十五


                切磋琢磨。
                互いに競い合って磨き合うという意味で広く使われているこの言葉。
                本来は技芸や学問、道徳心の向上を目指して己を磨くことを指す。

                「諂わない、驕らない」は可ではあるが、
                「諂うまい、驕るまい」とするのは貧賤にとらわれているから。
                貧賤にとらわれず、貧賤を超越して礼を好み、
                道を楽しむ者には及ばない、という孔子の教えに
                弟子子貢が判然と詩経の一篇の真意を悟るのだ。

                材を切り出し磨き、玉の原石を削り研ぎ、
                美しい宝玉を生み出す職人の在り方のように
                ただひたむきに精進することこそ尊いのだと。
                 



                2014年世界フィギュアスケート選手権が終わった。
                羽生結弦選手と浅田真央選手のペア優勝。
                おめでとうございます!

                羽生選手は2013年GPファイナル、
                ソチオリンピックに続いての世界大会3連覇。
                震災に遭い、持病を抱えながらの偉業。
                見事というほかない。
                「今シーズンは今シーズン」と驕らず、
                すでに来季に向け、兜の緒を締めているのも素晴らしい。


                ソチオリンピックでの悔しさをぶつけようと
                決意して臨んだという浅田真央選手。
                そんな強い決意をすると通常は身体が硬く緊張し、
                思うように動けなくなるものだ。
                現にソチ、ショートでの浅田選手はそうだったろう。

                ところが今大会でのパフォーマンスはどうだ。
                特にショートプログラム。
                「ノクターン」の優しいピアノの音色に溶け込むような舞に
                時を忘れてずっと見続けていたいほど、
                手先足先まで伸びやかでしなやかでやわらかにして力強く
                実に実に美しかった。


                強い決意や覚悟によって身体を硬直させてしまうこともあれば、
                強い決意に縛られずに自由な身体を保つことも出来る。
                病を得ても感謝の心や優しい心を失わない人もいれば、
                状況を怨み、運命を呪って心を淀ませ、閉ざす人もいる。


                心身一如。
                けれど身体の状況にひきづられない心を守ることもできるし、
                心の状況にひきづられない身体を保つこともできるということだ。
                そしてそれは決して矛盾するものではない。
                私たちの心身はそれだけの可能性を秘めているのだ。
                浅田選手は見事にそれを表現してみせてくれた。


                佐藤信夫コーチ曰く、
                浅田選手は我が強く欲の深い選手だという。
                その我欲はもっと強くもっと上手くなりたいという
                向上心と繋がっている。
                我の強さゆえに空回りしたり、失敗することもあるが、
                その我の強さ、欲の深さゆえに続けてくることが出来たのだと。


                もっと高く深く美しく。
                あくなき向上心の前に成長の天井はなく、
                人の可能性は無限に開く。
                「どうせ私は・・・だから・・・」
                悲観的な自分への先入観や言い訳で
                その可能性を自ら閉ざす人のいかに多いことか。


                姿勢、食習慣、精神習慣。
                健康を取り戻すのに必要な努力は
                彼女の数十分の一もあれば充分なことがほとんどだ。
                ほんの少し、本気で自分と向き合い続けるだけでいいのに・・・。


                ノクターンとは夜を想う明け方の心境を表現した曲だという。
                夜を偲んでも新しい一日はもう始まっている。
                過去を偲ぶのもほどほどに。

                切り、磋(みが)き、琢(う)ち、磨(と)ぐ。
                ひたむきであるからこそ迎えられる日の出もあるのだから。


                加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://kisaragi.net/ 

                | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 01:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
                色眼鏡
                0

                  『すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
                    きこえるものは、きこえないものにさわっている。
                    感じられるものは、感じられないものにさわっている。
                    おそらく、考えられるものは、考えられないものに
                    さわっているだろう。』
                                  ノヴァリス『断章』より 意訳 志村ふくみ『一色一生』より



                  価値観・常識・知識・経験・先入観・願望・立場・・・。
                  幾重にも塗り重ねた玉虫色の色眼鏡で私たちは世界を見ている。
                  私たちはすべての事象を見たいように見ているのであり、
                  見えたようにしか見えてはいないのだ。


                  「自分のことは自分がよく分かっている」

                  それは分かっていると信じているに過ぎない。
                  或いは未知の世界に触れること、認めたくない真実に触れることに対する
                  怖れや嫌悪感からくる強がりなのかも知れない。


                  例えば
                  「西洋医学は科学的だから信用できるが
                   東洋医学は非科学的だから信用できない」
                  と思い込んでいる人がいる。

                  現実には科学的な証明も説明も出来ないが効果があるので使用している、
                  という薬や治療法は西洋医学にもザラにあるし、
                  診断がつかないが取りあえず試しに或いは気休めとして
                  何らかの薬が処方されるということも珍しくない。
                  過去の科学的に正しいとされた常識が完全に覆されることも多々ある。
                  (それが西洋医学の価値を貶めるわけではない)

                  そのような事実を知っていてもいなくても
                  「西洋医学は科学的だから信用できる」という安直な考え方自体が
                  非科学的であることをそう信じている人は思いもしないだろう。


                  「目に見えないから信じない」という人もいる。

                  けれど「信じる」ということはその対象はすべて見えないものだ。
                  見えていないからこそ信じる必要性が生まれ、
                  見えていないから信じざるを得ない。
                  見えているならわざわざ信じる必要はないのだから。
                  そして信じる時はいつでもそう信じたいから信じるものだ。

                  そうして何かを信じるという信仰も
                  何かを信じないという信仰も
                  等しく一つの余計な色となっておのが目を曇らせてゆく。


                  そんな風にして私たちは生まれて此の方、
                  せっせせっせと余計な色を塗り重ねては
                  知らず知らず観えないものを増やしてゆく。

                  その色眼鏡が役に立っていることもあるだろう。
                  けれどその色眼鏡が分厚くなるほど
                  その色眼鏡に頼れば頼るほど
                  本質的に観えないものは増えてゆく。

                  言葉も知らない赤子が見る木の葉の緑の輝きは、
                  「緑」という言葉を知り、
                  緑に関する記憶や知識に曇った目で見る緑よりも
                  きっとはるかに美しく豊かであるに違いない。


                  とはいえ、私たちはこの色眼鏡を完全に外すことなどできない。
                  けれどその分厚いレンズをより薄く、
                  その度をより下げてゆくことはできよう。
                  それには先ず自分が色眼鏡をかけているのだということ、
                  見えている世界の他にこそ観るべき世界が広がっていることを認め、
                  見つめてゆくことが必要だ。


                  東洋医学、殊に鍼灸医学は氣の概念を前提としている。
                  氣とは生命現象そのものであり、
                  且つまたそのよってきたる力そのものだ。

                  目に見えない気だけが氣なのではない。
                  経絡を流れる気や体表を巡り、外邪を防ぐ衛気と呼ばれる
                  見えない気も氣だが、血液や脳脊髄液・リンパ液その他の
                  体液も氣であり、皮膚や筋肉、骨もまた氣なのだ。
                  氣の密度、性質変化によってその存在の在り方が変わるだけで、
                  生命現象はすべて氣なのだ。


                  見え得るものは見えないものに支えられている。


                  どれだけ科学が進歩し、電子顕微鏡が進化して、
                  より小さい物質を見られるようになろうと、
                  どれだけ詳細に科学的に生命現象が解明されていこうと、
                  ではなぜその細胞が生まれ生きて、生理的に機能しているのか、
                  その生命現象そのものを支える力は何なのか、
                  その力はどこからくるのか説明することはできない。

                  説明することができなくても
                  あるものはあるのだから仕方がない。

                  今、自分が生きて呼吸しているという事実は
                  信じるまでもない現実ではないか。
                  氣の存在を認めないということは自分が生きていることを認めない、
                  ということに等しく愚かしい。


                  信じるか信じないかではなく、感じるか否か、
                  感じ取れるか否か、認めるか否かの問題でしかない。
                  見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れて、そして触れずに
                  そこから得られる情報をどれだけ余すことなく受け止められるか、
                  という問題であり、それはどれだけ色眼鏡にとらわれないか
                  ということでもある。



                  東洋医学の診察法は「望・聞・問・切」という。
                  触診を意味する「切」は最下位に配されているが
                  初心においては最も重宝される。
                  が、より精緻で高度な診察になるほど
                  やはり「望診」すなわち望んで診る、
                  診て感じ取ることが重要になってくる。
                  触れない方がより本質的な問題が観えてきやすいということだ。


                  触診においても押さえるより触る、触るよりも触れる、
                  触れるよりも翳す(触れない)方がより深く広く、
                  より精緻繊細に多くのことを読みとることができる。
                  手を触れているところ、或いは翳したところから、
                  手を通して触れていない部分、触れられない部分を観ているのだ。

                  強い手、硬い手、粗い手で行う触診で得られる情報は少ない。
                  軽くやわらかに触れてこそ、或いは触れないからこそ、
                  より深く広く繊細に感じとれるのである。

                  術者の感覚が繊細になればなるほど強い触診は必要なくなってくる。
                  患者さんの鈍った感覚に合わせて強めに触診することはあるが、
                  それは患者さんが自分の身体の状態を知り、変化を感じ取るための
                  補助として、また感覚を磨くための一助として行う意味合いが強くなる。
                  だから感じようとしない、自分の身体の状況を理解しようとしない方、
                  ただぼ〜っと治療を受けている方にはあまり意味がないとも言える。


                  ともあれ、そうやって術者の感覚が高まってくるほどに、
                  触診その他の診察技術よりも、観て感じ取る望診の重要性が高まってくる。

                  書を学んでゆけば、たとえ書けなくても草書が読めるようになるように、
                  デッサンを積んでゆけば奇天烈な抽象画も観られるようになるように、
                  見えているもの自体にとらわれず、
                  見えているものを通して見えないものを観取り、
                  感じ取ってゆく修練のうちに、徐々に観える眼が養われてゆく。

                  そしてその眼こそが成長の道標となり、基準となり、
                  可能性の扉を開いてくれる。


                  それは何も術者側だけに限らない。
                  治療を受ける側のあなたも細やかに感じ取ろうと意識していれば、
                  触診で触れられた手、翳された手を通して自分の身体の状態や反応、
                  治療前後、或いは治療中の変化をより繊細に感じ取れるように
                  感覚を磨いてゆくことができる。

                  繊細な感覚を育ててゆけば、
                  自ずと感受性も豊かに柔らかに変わってゆく。
                  不調和に気づき、自ら整えてゆくことも出来るようになる。
                  今まで観えていなかったものが観え、
                  聞こえていなかったものが聞こえるようになる。
                  何気ない日常の変化の中に、幸せや喜びを感受することも
                  増えてくるだろう。


                  自分の未熟さ、偏り、鈍さ、至らなさに気づき認めることは、
                  それはそのまま、あなたの、私の伸び代になる。
                  色眼鏡の世界に己を限る必要などどこにもない。


                  見えるものを通して見えないものを観る。
                  そんな眼が研ぎ澄まされてゆくほどに、その観えるものの先に後ろに
                  さらに膨大な見えないものがあることも観えてくるようになる。
                  見えないものを観る眼がより深く広く繊細に磨かれていくほど、
                  その宇宙もまた無限に広がってゆく。

                  その果てなき広がりを闇となすか光となすか。
                  それはそれぞれの在り方次第だ。


                  見えるものは見えないものにさわっている。
                  見えないものは観得るべきものにさわっている。



                  『年毎に 咲くや 吉野の山桜
                  木を割りて見よ 花の在りかは』
                           一休宗純


                  加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/

                  | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 08:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  私は悪くない
                  0

                    「40を過ぎたら自分の顔に責任を持て」とよく言われる。
                    心の在り方、日頃の心身の在り方が顔に現れるのは年齢に関係はないが、
                    40も過ぎれば積み重ねた日々の在り方をごまかすことはできない、
                    ということだろう。


                    先日の拙文にておひさまへの感謝の念が
                    自律心へつながるという私見を述べた。
                    「おおいなる力」への畏敬と感謝は
                    謙虚な心なくしてありえない。
                    と同時にそこには「今」を受け止めるしなやかな強さと
                    完璧でない自己を許せる寛容さもあるだろう。
                    その上に生まれる自ずからなる自律心に
                    「〜べき」も「〜ならない」もいらない。


                    「おおいなる力」と言っても
                    何か象徴的な神のような存在を指しているわけではない。
                    おひさまを始め、自然の力のみを指しているわけでもない。
                    「今」「私」が「ここ」に存在するために必要な一切の縁、
                    「当たり前」と思ってついつい忘れがちな、
                    「当たり前でない」一切の縁のことだ。


                    その縁に感謝できるかいなか。
                    それは健康とも密接に関わっている。
                    姿勢や運動習慣、食習慣ももちろん大切だが、
                    健康には心の在り方がもっとも深く関わっている。


                    同様の状態から治療を始めても、
                    感謝のうちに生きている人は治りが早い。
                    平生感謝のうちに生きられない人ほど、
                    その分治りは遅くなる。


                    何故なら、後者の人はそれだけ日頃から余計なストレスを
                    かき集めているからだ。


                    同じ状況に立ち、同様の経験をしても
                    ストレスを感じるか否か、
                    感じたとしてもそのストレスの程度は人によって様々。
                    ストレスの多くは自らの心の在り方が産み出していると言えよう。


                    仏教でいう「一切皆苦」の苦の本来の意味は
                    「苦しい」という意味ではなく、
                    「ままならない」という意味だという。


                    一切の縁に支えられて「今」があり、
                    かつ時々刻々と変化し続けているのだから、
                    なるほど一切はままならない。

                    すべてのものは基本ままならない、
                    思い通りにならないと弁え、受け止め、許せる人、
                    ままならない縁にささえられて今があることに感謝できる人は
                    完璧でない自分を受けとめ、許すことも出来るし、
                    その上でまた、ままなる余地のある自己を整えるべく、
                    精進することも出来る。


                    すべてものはままならないとは受け入れられない人、
                    思い通りにいかないと気がすまない人は、
                    「感謝することは大切」とたとえ頭で分かっていても
                    なかなか感謝のうちに生きることは難しい。

                    どうして思いどおりにいかないんだ、と環境を責め、状況を憎み、
                    自分の事は棚に上げて他人を責め、
                    そんな自分を嫌い、上手くいっている幸せそうな誰かを羨み、
                    完璧でない自分を受け入れ許すことができない。
                    「〜べき」と「〜ならない」でストレスを生み続ける。


                    「憂」 は胃を傷 (やぶ) り、
                    「喜(興奮)」 は心を傷り、
                    「怒」 は肝を傷り、
                    「思(思いつめる)」 は脾を傷り、
                    「悲」 は肺を傷り、
                    「恐」 は腎を傷り、
                    「驚」 は腎を傷る


                    怒り、恐れ、不安、不満・・・。
                    感情の偏り、情緒の偏重は病へと繋がっている。
                    そしてその根幹には自分や自分の価値観、
                    欲望の充足に対する執着がある。


                    例えば50肩で30度腕を動かしただけで痛みがあって
                    それ以上動かせないとしよう。
                    治療後、90度まで動かせたとしよう。

                    患者Aさん 90度以上上げるとまだ痛むが
                          『楽になりました!』と
                          90度まで動かせるようになったことを喜べる人
                    患者Bさん 90度まで動かして
                          『痛い!』と言い、
                          90度まで動かせるようになったことを喜べない人。

                    どちらの予後が明るいかは明白だろう。

                    忘れてはいけない。
                    五十肩という状況に至るまで身体に負担をかけ追い詰めたのは
                    他の誰でもなく、当の自分自身だ。
                    そして症状とはその状況に対して
                    「これ以上負担をかけるのは止めてくれ」という
                    身体からの警報であり、防御反応であり、
                    感謝こそすれ、忌むべき対象ではないことを理解しなければ、
                    慢性疾患の治癒はそれだけ遅れることになる。

                    30度から90度まで関節可動域が改善したのは治療の力ではない。
                    治療という働きかけに身体が反応してくれた結果であり、
                    治癒力が高まった証だ。
                    それを本人が認めないということは、
                    自分の治癒力を認めないということであり、
                    改善を望んでいながら改善した事実を認めない、喜ばないという矛盾に
                    脳は混乱をきたす。
                    結果、脳は治療効果を制限或いは打ち消すことを選択する。


                    忘れてはいけない。
                    先天性・遺伝性或いは被害事故による外傷など一部の例外を削除すれば、
                    多くの病や疾患の原因は本人の生活習慣、不養生にある。

                    不養生とはいわば緩慢なる自傷行為 だと言えよう。


                    「私は悪くない」という被害者意識は
                    必ず治癒を遅らせる。
                    病や疾患の原因を省みることなく、
                    加えてその自傷行為をやめることもなく、
                    その後始末を医療に丸投げしようという意識が健全であると
                    誰が言えようか。


                    Bさんは物事の悪い面にしか目が向かない。
                    悪いものしか目に入らない。
                    そして自分の望むことは誰かがやってくれる、
                    やってくれるべきだと潜在的に思っている。
                    それはBさんの日頃の在り方を表している。
                    要らぬストレスをかき集めずにはいられない。

                    思い通りにしたい、なるべきだという執着が
                    他人は自分の望みを聞き、自分の望むように自分を扱うべきだ
                    という潜在的執着が不平不満に拍車をかける。
                    そしてそれは必ず顔ににじみ出て
                    やがて刻まれてしまうものだ。


                    治療院内に限らず、
                    そうした不平不満で拵えたような顔をしている人は少ない、
                    とは哀しいかな言えない。

                    少し気をつけて観察してみよう。
                    往来で、電車の中で、仕事場で。
                    あなたの身近な人はどんな顔をしているだろう。
                    そしてあなた自身は・・・。


                    今日は少々思い切ったことを書いてみた。
                    はい。自分の事は棚に上げて。



                    『今日も明日も愛と感謝に生きよう
                     大切なものは忘れがちだけれど
                     愛しい人よ 最高の笑顔をありがとう
                     大地を踏みしめて共にに歩こう』
                          Superfly「愛と感謝」より 作詞 越智志帆/多保孝一


                    加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://kisaragi.net/

                    | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 02:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    一文字違い
                    0

                      楽しみにしていたパラリンピック。
                      毎度のことだがオリンピックの放送とは比較もならないほど
                      放送枠が少ない。

                      全部見られるのは一部の有料放送だけで、
                      NHKでも30分番組が一つだけ。
                      再放送を含めても1時間にも満たない。
                      BS衛星放送でもやっていない。
                      後は好成績を収めた選手をニュースで取り上げるだけ。
                      中継ではまったく見せてくれない。

                      オリンピックとパラリンピック。
                      一文字違いならぬ一文字と一字数違いで
                      この扱いの差はなんだろう。

                      視聴率が取れないスポーツに民放が見向きもしないのは分かるが
                      NHKくらいはもう少し取り上げてほしいものだ。
                      来々期の夏季オリンピック開催国で
                      マイナースポーツは応援しない、という風潮は情けない。


                      さて、一文字違いと言えば、
                      患者さんから過去のブログ記事の中から
                      「目線」についてご質問を頂いた。

                      『眉間の力を抜いて、目線を高く保つようにしましょう』
                      『頭頂を空に向け、目線を高く、まっすぐ前を向いて』

                      という記事を見て、『上を向くということですか?』と。


                      「視線」と混同されやすく、実際そう解釈している辞書もあるようだ。
                      「カメラ目線」などはその立場から生まれた言葉だろう。
                      けれど「目線」と「視線」は明らかに違うと私は認識している。

                      「視線を交わす」というが「目線を交わす」とは言わないし言えない。
                      「熱い視線」とは言えるが「熱い目線」とは言わないし言えないだろう。

                      「視線」にあって「目線」にないもの。
                      それは目の動きである。
                      そこには対象を見つめる目からの一定の方向性がある。


                      一方、「目線」には目の動きはない。
                      「目線の高さで測定する」「消費者目線」というように
                      それは目の動きではなく、目の位置的高さを意味している。

                      ゆえに「目線を高く」とは、
                      「目の位置を高くして」という意味である。


                      では目線を高くするにはどうすれば良いのだろう。
                      ありていに言えば「猫背にならない」ということだ。
                      背骨が鉛直方向に最も長い状態を維持するということ。

                      それは仙骨が後傾も前傾もし過ぎずに程よく立ち、
                      仙骨の上に背骨が、背骨の上に頭蓋骨が安定して乗っている状態。
                      顎を上げず、また引き過ぎず、
                      「頭頂(頭の天辺)を空に向け」ている状態と言える。

                      犬が尻尾を丸めるように腰を落としたり、
                      或いは逆に反り腰になっても、
                      頭は骨盤の上に乗らずに前方へ傾きやすい。
                      すると眉間に力が入りやすくなる。


                      試してみると良い。
                      頭を前方に傾けると前頭部や目に不快な重みがかかるだろう。
                      同時に後頭部や首の後ろも緊張してくる。
                      逆に目に或いは眉間に力を入れると頭は前方に引っ張られ、
                      結果猫背になりやすくなる。

                      視野が狭まり、明度も落ちて感じる。
                      見えているものが暗く見えるということは
                      心理的にももちろんストレスとして作用してゆく。
                      逆に目線を高くすれば視野が広がり、
                      視界が明るくなり、気分も明るくなってゆく。


                      「眉間の力を抜いて」
                      それは猫背の、頭が背骨よりも前方に位置している状態では
                      なかなかできない。
                      頭の位置、仙骨の角度などを細かく修正してゆく必要がある。

                      眉間の力を抜くためには
                      眉間の力が自ずと抜けるように姿勢を整えなければならないということだ。

                      それには自分が意識的に自分の身体と向き合い、
                      創意工夫していくしかない。


                      以前の記事で

                      『素直に実践する人は、
                      【眉間の力を抜く、目線を高く保つ】
                      たったそれだけの事を通して多くの気づきを得る事が出来る』

                      と書いたが、自分と向きあうからこそ、自分の癖であったり、
                      いかに身体が思い通りには動いてくれないのか、
                      いかに無駄な力が入っているか、
                      どれだけ自分が自分の身体を粗末に扱ってきたか等に
                      気づくことが出来るのだ。


                      さて、これは別の患者さん。
                      「座り方や歩き方、身体の使い方をを少し変えるだけで
                      こんなに身体は軽くなったり、しんどくなったりすると知って、
                      生活の中で色々意識することが楽しくなったきました」


                      自ら身体に働きかける楽しさを彼女は知ったのだ。
                      それは意のままには動いてくれない自分の身体と
                      向き合うことではあるけれど、
                      同時に自分の身体に秘められた可能性を知ったということでもある。

                      そうなればしめたもの。
                      自分の可能性を信頼できる人はどんどん変わってゆくことが出来る。

                      自分の身体を憎み嫌い信頼していない人が
                      どうして良き方へ変わってゆけようか。



                      はてさて、とにもかくにも「目線」とは目の高さのことを言い、
                      「目線を高く保って」とは目の高さを高く保ちましょうということだ。
                      決して「上を向く」ということではない。


                      「上を向いて歩こう」なんて名曲もあるが
                      実際に上を向いてなんて歩いたら
                      危なかっしくて仕方がない。

                      そういえば、頭上注意!なんて道路標識もあるが
                      あれは前方不注意促進標識ちゃうやろか。
                      危ない危ない。

                      顔をあげてまっすぐ前を向いて歩きましょう!


                      『世の中は一文字違いで大違い
                       刷毛に毛があり 禿げに毛がなし』


                      加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/

                      | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 16:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
                      ウンコよけと千里の道
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                        1600年代のパリ博覧会に出品された作品が
                        現代のハイヒールの原型という。

                        当時のヨーロッパには下水の設備がなく、トイレがなかった。
                        糞尿はオマルや尿瓶にとって2階の窓から捨てていたという。
                        かのベルサイユ宮殿でさえ、水洗便所は王専用のものしかなかったそうだ。
                        さぞ街は糞尿の匂いに溢れていただろう。

                        ハイヒールが生まれたのはその糞尿を踏む接地面積を少なくするためとか、
                        裾が汚れるのを避けるためだとか言われているが、
                        接地面積を小さくしようが汚れることには変わりがないし、
                        臭いものは臭いのだから、
                        主な理由は後者だろう。

                        踵のみ高いもののほか、爪先側も高い厚底ブーツの
                        ようなものも多かったという。
                        背が高く見え、ふくらはぎが緊張した姿が美しいとされ、
                        やがてファッションのひとつとして定着してゆくが、
                        いずれにせよ、ハイヒールは「ウンコ避け」として生まれたのだ。
                        機能を無視した非機能美の典型だろう。

                        踵の高い爪先だった不安定な状態では、足関節の前側は伸び、
                        アキレス腱側は縮んだ状態で筋・腱は硬く固まり、
                        足関節は柔軟性を失わざるを得ない。
                        その状態で背筋を伸ばした姿勢を維持しようとすれば、
                        体幹の強さが必要となるが、深部腹筋群や臀筋が弱ければ
                        骨盤は後傾する。骨盤が後傾すれば重心は下方後方に向かい、
                        そのままでは後ろに倒れてしまう。
                        それを避けるためには、バランスを取るために猫背にならざるを得ない。

                        猫背となれば肩は前方に丸まり、肩関節の可動域は当然制限される。
                        頭部が前方に突き出ることで、背骨の支えなく、
                        約6キログラムの頭の重さを常に首や肩の筋肉だけで
                        支えなくてはならなくなり、肩こりはもちろん頭痛や
                        目の疲れなどにもつながってゆく。

                        胸が縮み、肩甲骨の柔軟性が失われることで呼吸が浅くなり、
                        花粉症など呼吸器系の症状も出やすくなる。
                        上体が常に緊張状態となり、交感神経優位の自律神経の失調を招き、
                        不眠、めまい、ふらつきなどの症状も起こりやすくなる。

                        平靴を履いていても猫背となれば上記のような状態を引き起こす。
                        ハイヒールはいわば猫背製造機。
                        身体にとって良い筈がないのは、冷静に考えれば誰にも分かることだろう。


                        ハイヒールを美しく履きこなしている人を
                        街中で見かけたことがあるだろうか。

                        ミュールなどの厚底靴にも言えることだが、
                        不安定さに皆おっかなびっくり、
                        腰を落として膝を必要以上に曲げて、転ばないように歩幅を小さくして
                        俯き加減にチョボチョボヨタヨタ歩いている。

                        重心を後ろにして膝を曲げれば、太ももの前側の筋肉が緊張する。
                        この筋肉はブレーキの役割をする筋肉だから、
                        常にブレーキを掛けながら歩いているようなもの。
                        颯爽と歩ける筈もない。

                        踵を見れば外側がすり減り、傾いたまんま歩いている人も多い。
                        踵の位置が高い分、外踝が大きく外へ逃げてゆく。
                        足首が外側へ捻じれた状態で歩くのだから、その上の膝にも負担がかかる。
                        構造的に土台の足首がずれていれば、その上にある身体の各部分に
                        要らぬ負担がかかるのは当然のことだ。


                        そんな姿のどこを見て「美しい」と感じるのだろうか。
                        スニーカーやローファーを履いて背筋を伸ばし、頭頂を空に向け、
                        目線を高く、まっすぐ前を向いて颯爽と歩いている人の方が
                        どれほど美しいか知れない。

                        モデルの女性がハイヒールを履いて美しく見えるのは、
                        その不安定で不自然な道具の上でも、骨盤を立て、
                        その上に背骨と頭を乗せて歩けるだけの筋力や柔軟性、バランス感覚を
                        維持できるように鍛え、自己管理をしているからだ。
                        『ハイヒールを履いたら誰でも美しく見える』わけではないだろう。


                        さて、先日のこと。
                        ある年配の女性。
                        上記のようなハイヒールの問題点や靴の重要性、
                        足関節の異常がどのように身体に悪影響を与えるか等を
                        これまで繰り返し説明し、踵の高い靴を避けるよう助言していたが、
                        ほぼ毎回、ハイヒールやブーツを履いて来院される。

                        【また踵の高い靴を履いて来たでしょ】と向けると
                        『いいえ、履いてきてませんよ』

                        確認するとヒールの高さ3〜4センチはあるブーツ。

                        【履いてきてるじゃないですか】
                        『私の中ではあんなのはヒールの内に入らないんです』


                        さよか・・・。

                        となれば、こちらがそれ以上言うべきことは何もない。
                        健康よりも見かけ、ファッションが大事、
                        健康よりもウンコ避けが大事だと彼女は選択したのだから。


                        たとえば健康が西の果てにあるとするなら、
                        治療は西を向いて歩きだせるように
                        身体を整え方向づけしているようなものだ。
                        医療指導は、その状態を維持しながら目的地へ向かって
                        歩くための地図であり杖であると言える。

                        長らくの心身の癖によって、
                        はたまたたとえ良くない方向であっても
                        脳は慣れた状態へ戻ろうとするので、
                        いざ西へ歩きだしても方向がずれたり、
                        後戻りしてしまうことは致し方ないことだが、
                        それはその都度修正してゆけば良いことだ。
                        その繰り返しの中で着実に目的地に近づくことができる。

                        しかし、端から振り向いて逆方向へ歩き出す人に
                        治療家がそれ以上出来ることはない。
                        不養生を治す治療はないのだから。


                        誰しも道を選ぶ権利と自由を持っている。
                        自ら道を選んだなら楽しくその道を全うして欲しいものだ。
                        その道を選んだ結果を引き受ける覚悟とともに。


                        『千里の道も一歩から』

                        その一歩はあなたの望む行き先へと繋がっているだろうか。


                        漢方鍼灸専門 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/
                        | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 11:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
                        錘(おもり)
                        0
                          ご通院中の若い夫婦。

                          旦那さんは体調管理のペースで通院されている。
                          本日の主訴は腰の張り痛みと右膝内側の痛み。
                           
                          • 深い呼吸が出来ている。
                          • 正中線がはっきりし、安定して立てる。
                          • 関節可動域が改善している。
                          • 目が開きやすくなり、視界が広く明るくなっている。

                          などを確認し、治療を終える。
                          症状は治療途中に自ずと消えている。
                          対症療法は行っていない。

                          奥さんの治療を終え、会計の際ふと旦那さんを見ると、
                          ズボンの右前ポケットの辺りから何かブラブラぶら下げている。
                          太めの鎖がダラリと下がり、その先にいくつかの鍵やら何やらが
                          見るからに重そうにぶら下がっているのだ。
                          若い男性に時折見かける例の奴だ。

                          『それをちょっと外してみてください。』

                          鍵を外して立ってもらい、その感覚を味わってもらう。
                          治療後なのでもちろん正中線が通り、深い呼吸が出来ている。

                          『もう一度鍵をぶら下げてみて下さい。・・・どうですか?』

                          【あっ、重いです、腰が重くなります!
                           右ひざの内側もおかしい。
                           身体が捻じれて、息もしづらくなりました!】

                          もちろん、その後鍵はぶら下げずにお帰りになった。


                          そんなことでと思うかもしれない。
                          けれどそういうものなのだ。

                          鍵が錘となり、身体をあらぬ方向へ引きずり落とすように重力がかかる。
                          それにひきずられるように身体は傾き捻じれ、正中線はずれてゆく。
                          同時に錘の力に負けまいとして身体は余計な筋肉を緊張させる。
                          緊張した筋肉は硬くなり、気血の流れが滞り、身体機能は低下する。
                          当然呼吸も浅くなる。

                          身体の中央、正中線には督脈・任脈という
                          東洋医学的に重要な経絡が通っている。
                          現代解剖学的に見ても、脊柱と頭蓋骨内を満たし、
                          脳と脊髄を栄養・保護している脳脊髄液が循環している。

                          身体の中央を流れる気血水の流れが整っていることは
                          健康上非常に重要な要素だ。
                          整っていることで自律神経が安定し、内臓機能も安定・調和し、
                          深い呼吸が出来、自然治癒力が向上し、免疫力も安定する。
                          正中線がずれる、気血水の流れが滞ることがいかに問題かは
                          言わずもがなである。

                          姿勢というものがいかに大事かということが知れよう。


                          今回は鍵だったが、鍵のほかにもズボンの後ろに入れた財布や
                          いつも同じ側で持つ、肩にかけるバッグなども錘になる。
                          少し考えれば、錘になっているものはいくらでも思いつくだろう。

                          「そんな些細な事」ではあるが、
                          些細な事の積み重ねの上に今日の健康状態がある。
                          些細な事の積み重ねの先に明日の健康がある。

                          小さな錘が引き上げ困難な重い錨(いかり)に変わる前に
                          余計な錘はさっさとはずしてしまおう。

                          良くないと気づいたら改める。
                          ただそれだけのことで変わる明日がある。


                          あやまちて改めざる、これを過ちと謂う』
                                論語 衛霊公第十五の三十

                          漢方鍼灸専門 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/
                           
                          | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 16:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
                          下手な鉄砲
                          0
                            「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」と諺にある。

                            失敗を恐れるな、という意味と取れば結構な諺。
                            けれど闇雲に数撃っていて射撃が上手くなることはない。
                            当たったところで偶然当たっただけのことだ。


                            昨日、紹介でご来院された新患さん。
                            男性。40代。大工さん。主訴は右鼠蹊部の痛み。
                            20日ほど前にギックリ腰になり、その痛みは和らいだが
                            右足の付け根がどんどん痛くなってきたという。
                            身体をよじりながら歩き、まっすぐ立てない。

                            整形外科では「ギックリ腰の影響でしょう」と言われ、
                            痛みどめの注射を打つも効かない。
                            整骨院で治療してもらったが良くならないという。

                            診るとスパイラルテープが貼ってある。
                            スパイラルテープとは格子状の小さなテープを皮膚に貼りつけ、
                            筋・骨格系のバランスを取ることを目的とするテープ。
                            筋肉や関節の症状に対して用いられる。

                            それが身体の至るところに貼ってある。
                            7、8か所貼ってある。こんな貼り方は見たことがない。
                            当院はスパイラルテープは使わないし、詳しい使い方も知らない。
                            けれどこれが間違った使い方であろうことは分かる。
                            聞くと加古川市内でも有名な整骨院らしい。

                            楽になりましたかとお聞きすると『まったく。』
                            そらそうやろ。

                            全部はがして貰って診察してみる。
                            右鼠蹊部には問題がなく、他の筋肉の弱化により、
                            その部分に負荷がかかっているだけと判明。
                            頭に一穴、鍼を打つと痛みは10から2に。
                            呼吸も深くなり、すんなり立てる。
                            患者さんは喜んでいるがこちらはどうも違和感が残る。

                            もう一度よく診てみると両鼠蹊部あたりで気が淀んでいる。
                            下着を少しめくると両鼠蹊部にスパイラルテープ。
                            これか。はがして貰う。ぐんと流れが良くなる。
                            『楽です楽です!』
                            治療終了。

                            この患者さんの感覚が素晴らしい。
                            『このテープにも力があるってことですよね』

                            このテープに身体に影響を与えられる力があるということ、
                            「今回はマイナスに働いたが適切に使えば・・・」と
                            この方は瞬時に理解されたということだ。
                            そう。スパイラルテープが悪いわけではない。
                            使いようが悪いだけだ。

                            肌にテープを貼付する。その僅かな刺激を受け取るのは脳だ。
                            僅かな刺激だからこそ、適切に使えばそれなりの効果を得ることが出来る。
                            計10枚も貼っていては脳は混乱するばかりで負担にしかならない。
                            第一仮に10枚貼って、よしんば症状が緩和されたとしても
                            これではどれが効いているのかも分からない。
                            「貼ってみた。症状が取れた。良かった。」で終わってしまい、
                            そこからは何も学べない。


                            患者さんに訊くと施術はそちらの院長ではなく、若いスタッフとのこと。
                            貼っても貼っても効果が得られず、
                            焦ってついつい数撃ってしまったのだろう。
                            臨床の浅いうちはありがちなこと。私にも覚えがある。
                            症状ばかりを追っているとこういう過ちを犯しやすい。

                            下手でもいい。
                            厳密に診断し、適切な治療をしようとすること。
                            その積み重ねの中でしか上手にはなれない。
                            ダメなことを繰り返しても意味はない。

                            せっかくこの道に入ったのだ。
                            是非上手になって欲しい。
                            院長さん、ご指導よろしくお願いします。


                            件の患者さん。
                            最近の大工さんは鑿も鉋も鋸も殆ど使わないという。
                            単純な道具であるほど扱う者の工夫の余地があり、
                            身体感覚も磨かれていくのだが、これも時代の流れ、
                            そういう技を磨く仕事がないのだから仕方がない、
                            と簡単には割り切れない。
                            伝統の技が廃れてしまう。

                            そんな話をしていると、
                            『釘打ち機の使い方を気をつけてみます!』

                            平成の釘打ち機名人の誕生を期待しよう。



                            『くれぐれも 初心の者を笑わざれ
                             習わぬ前(さき)のわが身なりけり』
                                        武術道歌

                            漢方鍼灸専門 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/

                             
                            | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 14:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
                            現在地
                            0
                              ソチオリンピックが終わった。
                              勝敗に関わらず、素晴らしい熱戦を見せてくれた
                              すべての選手に感謝したい。
                              ありがとう。


                              先日のフィギュアのエキシビジョンでは、
                              金妍児選手
                              高橋大輔選手
                              浅田真央選手
                              の三人が特に印象深かった。

                              出場する選手の殆どがメダリストなのだから、
                              どの選手のパフォーマンスも見応えがあるのはもちろんだが
                              この3人に特に共通して感じたのは
                              その動きの柔らかさ・しなやかさと
                              その表情の穏やかさだ。

                              彼らだけでなく、選手それぞれに背負っているものがあり、
                              伺い知れぬ想いやドラマを抱えているのだろう。
                              その中にあって彼ら3人のあの穏やかでさわやかな顔ばせは
                              なんとも美しかった。


                              たった独りで国民の期待という重圧を
                              長い間その小さな肩に背負ってきた金妍児選手。
                              いつもの凛とした顔よりずっと穏やかだった。
                              ノーミスの納得のいく演技で競技生活に幕を降ろせた充実感や
                              重圧から解放される安堵感からだろうか。



                              高橋選手。最後と決めて臨んだ五輪。
                              万全の体調で臨めず、満足できない演技にも成績にも
                              さぞ悔いが残っていることだろう。

                              浅田選手。
                              優勝候補と言われながら、惨敗のショートプログラム。
                              最高のフリーの演技、スケート史上に残る名演技が
                              出来たことは満足だろうがショートでの失敗や
                              夢を叶えられなかった悔しさ無念さは
                              生涯消えないのではないだろうか。

                              けれど高橋選手も浅田選手もそんな負の感情を抱えながら
                              負の感情に埋没していない。引きずられない。
                              現実をあるがままに受け止め、受け入れている。
                              苦しい状況から逃げ出さずに闘ってきたからこそできること。
                              若くしてそうそう出来るものではない。

                              現実を受け止め受け入れる。
                              言い訳せずに、逃げ道を探さずにまっすぐに受け止める。
                              それは現在地を知るということ。
                              目的地がどこであれ、現在地が分からなければどこへもいけない。

                              現在地を知っているからこそ進むべき道を決めることが出来る。
                              次の一歩を踏み出すことができる。
                              3人の穏やかで爽やかな美しさは現在地を知っているがゆえの
                              美しさかも知れない。

                              そしてもう一つ3人に共通することは
                              その動きが非常に繊細で柔らかくしなやかなことだ。
                              心身一如。
                              身体が柔らかでしなやかゆえに心もまた柔らかでしなやかなのだ。
                              そして柔らかくしなやかな心は強い。


                              人間、赤子の身体は柔らかく弾力があり、しなやか。
                              好奇心に満ち、感受性も豊かだ。
                              年老いて身体が硬く弾力がなくなるほどに頑固になりやすい。
                              またうつやパニック障害などの精神疾患、
                              或いはうつ傾向にある人の身体は総じて硬い。
                              同じような病状であっても頑固な人、身体の硬い人よりも
                              素直な人、身体の柔らかい人の方が治りは総じて速くなる。

                              頑固な人は「どうして私が?」と怒っている。
                              「私は悪くない」と現実を受け止められない。
                              だから医療指導にも耳を貸さない、守らない。

                              素直な人は現実を受け入れ、
                              だからこそ次の一歩を踏み出すことができる。
                              助言を素直に聴き入れ、自分が今出来ることを実践してゆく。
                              変わってゆくことを恐れない。


                              人間も動物。
                              「動き」というものは非常に重要だ。
                              いかに無駄なく自由に動けるか。
                              それには柔らかでしなやかな身体が必要だ。
                              柔らかでしなやかな心が必要だ。

                              そしてそれは自分でしか保ち育てることはできない。
                              医学が出来ることはそのほんの手助けに過ぎない。
                              治療の場を自分と向き合うきっかけの場としてくれるなら
                              こんなに嬉しいことはない。

                              心も身体も自分のもの。
                              大切にするもしないも自分次第。
                              今の自分と向き合おう。
                              現在地を知ろう。
                              すべてはそこから。



                              『前回のバンクーバーオリンピックと
                              今回のソチオリンピックの2大会を合わせて、
                              私にとって最高のオリンピックになりました。』
                              浅田選手の清々しい笑顔が忘れられない。



                              『岩もあり 木の根もあれど 
                              さらさらと たださらさらと 水の流るる』
                                           甲斐和理子

                              漢方鍼灸専門 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/

                               
                              | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
                              種を蒔く人
                              0
                                連日素晴らしいものを見せて貰っている。

                                スキージャンプラージヒル、男子団体。
                                スノーボードパラレル、竹内智香選手。
                                スキーハーフパイプ、小野塚彩那選手。

                                そして昨夜の浅田真央選手。

                                天才と実績ゆえの世界中からの注目。
                                日本代表としての責任感。
                                想像を絶する重圧の中、心中はいかほどだったか。
                                常人に知れよう筈もない。

                                ショートプログラムはぼろぼろ。
                                自己最低点。
                                落胆の程は量り知れない。
                                そのどん底から、フリーは自己最高点を叩きだす
                                素晴らしい演技だった。

                                努力を怠らぬ天才が厳しい鍛錬のすえ身に着けた実力が
                                群を抜いていることは誰もが知っている。
                                その実力を如何なく発揮するばかりか、
                                溢れるばかりの情感に一瞬も目が離せない。
                                SPの失敗が悔やまれる。
                                けれどどん底から一転、頂点の輝き。
                                なんという精神力か。
                                見事としか言えない。

                                稀に見る高い水準の好試合だったろう。
                                その中でメダルを取った選手はもちろん素晴らしい。
                                けれど彼女の輝きはそれ以上のものにも思える。
                                それは日本人ゆえの贔屓目ではなく、
                                世界中の人がそう感じているのではないだろうか。
                                ありがとう!
                                エキシビジョンが楽しみだ。


                                『信じていれば夢は叶う』

                                そんな耳あたりの良いだけの無責任な言葉が跳梁跋扈しているが、
                                そんな筈がないのはオリンピックを見るまでもない。
                                一握りの勝者以外は皆敗者なのだから。

                                しかし、敗者になれるのはその舞台に立った者だけだ。
                                恐怖や困難から逃げずに挑み続ける者だけが
                                目標に向かって精進する者だけが
                                夢を叶える好機をつかむ可能性を得るのだ。

                                勝負は時の運。
                                その上で敗れるのは致し方ない。
                                誇り高い負けというもの。

                                悔しさは戦った者だけが掴むことができる。
                                次の舞台への糧となろう。
                                挑まない者、闘わない者が悔しいとしたら、
                                それは無いものねだりの不平不満でしかない。


                                花が咲くのをただ夢見て待っているだけの人もいる。
                                誰かが実を運んできてくれると信じているだけの人も。
                                そして自ら種を蒔き、水をやり育てる人がいる。
                                花を咲かせ実りを得る人は誰か。

                                種を蒔き続けよう。



                                『切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ
                                 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』
                                          武術道歌


                                漢方鍼灸専門 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/
                                | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 11:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
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                                  やりました!キャプテン!
                                  葛西紀明選手!

                                  昨日の男子フィギュア羽生選手の金メダルに続き、
                                  堂々の銀メダル。
                                  おめでとう!本当におめでとうございます!


                                  今季7度目のオリンピックの代表にして、
                                  海外選手からも『レジェンド』として尊敬される選手。
                                  しかし、代表落ちを始め、怪我や故障、
                                  所属先のスキー部の廃部など、
                                  『悲運のエース』と呼ばれるほど、
                                  度重なる艱難辛苦を嘗めてきた選手でもあった。


                                  それでも今日まで続けらてこられたのは、
                                  随一と定評のある運動能力の高さや負けず嫌いな性格、
                                  本人の言う「勝った時の喜び」や「ジャンプが好き」という気持ち、
                                  たゆまぬ努力と諦めない強靭な精神力もあるだろう。
                                  けれどそれだけでトップ選手でいつづけられる筈がない。
                                  そんな彼を支え続けてきた多くの人たちがいるのだ。

                                  実力がありながら、負けも多かった彼を
                                  どうしてこんなにも長く多くの人たちが支え続けてきたのか。
                                  人をして彼を支えたい、支えようと思わしめる人徳が
                                  彼にはあるのだろう。

                                  男子フィギュアの高橋大輔選手もきっとそうだろう。
                                  膝の靭帯断裂という大きな怪我を乗り越えてきた彼に、
                                  またも降りかかったオリンピック直前での怪我。
                                  絶頂期の彼の動きからすれば、今回のオリンピックでの滑りは
                                  まったく精彩を欠いたものでしかなかった。
                                  しかし、彼の演技中一瞬も目が離せなかった。

                                  その人を引き付ける何かは、天性の魅力だとか努力の結晶などと
                                  いう言葉だけでは表現できないだろう。
                                  艱難辛苦を乗り越えてくる中で磨かれてきた人としての在り方が
                                  そこににじみ出ているからではないだろうか。


                                  聞き手の目も見ないで、自分に酔った発言をする選手もいるが、
                                  葛西選手も高橋選手も上村愛子選手も、
                                  そのほか輝いている選手は皆、
                                  勝っても負けても対話する人の目をまっすぐに見返す。


                                  そして葛西選手は言う。
                                  『次の目標が出来ました』
                                  高橋選手は言う。
                                  『次のステージへ』


                                  「継続は力なり」

                                  昨日の自分を捨て
                                  もっと高い世界へ、新しい世界へ踏み出す勇気。
                                  諦めない不屈の精神と逆境に学ぶ謙虚にして成長に貪欲な姿勢。
                                  そしてそれを続けれられる場を育てる力。
                                  続けさせてもらえる自分であり続ける力。


                                  自分の出来る精一杯を楽しもう
                                  追い風の中でも
                                  逆風の中でも




                                  『憂きことのなほこの上に積もれかし 
                                   限りある身の力ためさん』
                                           山中鹿之助


                                  漢方鍼灸専門 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/

                                   
                                  | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 11:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
                                  言い訳
                                  0
                                    ソチオリンピック盛り上がっております。

                                    スノーボードの若い二人、快挙にも動じず。
                                    素晴らしい。
                                    単にテンション低いだけかもしれんけど・・・。
                                    ガッツポーズをして相手を貶める非礼を
                                    平然とやってのける柔道選手に見てほしいものだ。
                                    (柔道が武道であるなら)。

                                    渡部暁斗選手。
                                    ノルディック複合、久々の快挙。
                                    おめでとうございます。
                                    そやけど、何であんなに見るからに
                                    シンドイ種目選んだんやろ・・・?

                                    高梨沙羅選手(甥っ子にちょっと似てる・・)。
                                    彼女のジャンプの時は2回とも追い風で
                                    揚力を得られず、距離が伸びなかったらしい。
                                    表彰台には乗れなかったけれど、
                                    それがどうした世界の4位。
                                    不本意だろうけど、堂々と胸を張って欲しい。

                                    インタビューを受ける態度も素晴らしかった。
                                    涙を堪えながらも相手の目をしっかり見て、
                                    そして彼女は一言も言い訳をしなかった。
                                    感服です。


                                    言い訳をしない。
                                    それは自身の在り方に責任を持ち、
                                    主体的に生きているということ。
                                    だからこそ、自分の可能性を信頼し、
                                    どこまでも精進することができ、
                                    どこまでも成長してゆくことが出来る。

                                    言い訳をする人は、どんな状況でも
                                    どんな道を選んでも言い訳するだろう。
                                    言い訳をすることでその人は逃げ道を得るが
                                    同時に主体的に生きる自由を失う。
                                    言い訳をする度に自身への信頼感を失う。
                                    「私には無理」「どうせ私には出来ないから」と。
                                    言い訳をすることで自分の可能性の扉を閉ざしてしまう。


                                    『眉間の力を抜いて、目線を高く保つようにしましょう』

                                    たったそれだけの事でさえ、
                                    実践する気さえあれば、1秒もかからずに出来ることでさえ、
                                    出来ない理由、否、やらない理由を探す人は少なくない。

                                    逆に素直に実践する人は、
                                    『眉間の力を抜く、目線を高く保つ』
                                    たったそれだけの事を通して多くの気づきを得る事が出来る。
                                    そして、その気づきを通して、また一歩踏み出す事が出来る。


                                    言い訳をするかしないか。
                                    主体的に生きる自由を捨てるか否か。
                                    勿論それを選ぶのも決めるのもその人の自由なのだけれど。


                                    『為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ』
                                                             武田信玄



                                    閑話休題。

                                    ところで、負けた選手、振るわなかった選手を
                                    泣くまで追い込むような他局の無情なインタビューと違って、
                                    程を弁えたNHKのインタビュアーはなかなかニクイですね。



                                    漢方鍼灸専門 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/
                                    | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 19:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
                                    なんで白いん?
                                    0
                                      今は昔。
                                      知人の子供、4、5歳の女の子に
                                      降り積もる雪を眺めながら訊かれたことがある。

                                      『雪ってなんで白いん?』
                                      【何色やったらええと思う?
                                      赤かったら血ぃみたいで怖いやろ?】
                                      『黄色かったら?』
                                      【目ぇチカチカしそう】
                                      『ピンクがええわ』
                                      【落ち着かへんやろ】
                                      『紫やったら?』
                                      【頭、痛なる。茶色かったら?】
                                      『キタナイなぁ(笑)』
                                      【やっぱり白い方がええと思わへん?】
                                      『思う〜!!』
                                      【そやから白いねん】
                                      『ふ〜ん!』

                                      一件落着。
                                      科学的な答えがいつだって正しいとは限らない。


                                      理屈で考える。理論的に整理する。
                                      勿論それが必要な場面も時期も沢山あるだろう。
                                      しかし、逆にそれが足枷になって、
                                      本質的な理解を妨げることもある。


                                      たとえば、古人が残してくれた食べ合わせの知恵。
                                      それはアミノ酸がどうだとか、酵素がどうだとか
                                      科学的に調べ、栄養学的に「正しい」と認定して
                                      残ってきたわけではない。
                                      古人の身体を通して、経験を通して吟味し、
                                      淘汰されてきた言わば「身体智」そのものだ。

                                      「科学的に正しくて身体に良い食べ物」と
                                      「身体が真に欲し、身体が喜ぶ食べ物」。
                                      同じ食べ物でもその味わいは違うだろう。
                                      そして理屈で納得して食べるより、
                                      喜びのうちに食べる方がきっと身につくというものだ。

                                      山のようにあふれる「科学的に正しい情報」をかき集めるより、
                                      心身が真に欲しているかいなか、という身体智を育てることの方が
                                      ずっと大切なのではないだろうか。


                                      のどが開き、呼吸が深くなる。
                                      鼻が通る。視界が広がり明るくなる。
                                      筋肉の緊張が取れ、身体がベッドに深く広く沈んでゆく。
                                      治療中、一鍼うつごとに刻々と身体は変化してゆく。

                                      その変化を味わい、喜び、感動する人もいれば、
                                      昨日の自分の症状や疑問や不安を頭の中で反芻しながら、
                                      今まさに自分の身体に起きている変化を見過ごす人もいる。

                                      前者の方は「現(うつつ)」に生き、
                                      後者の方は「夢(妄想)」の中で生きている。


                                      禅宗では食事中、一切声を出さない、なるべく音も立てないという。
                                      「食す」という「今」に生きるための修行だろう。

                                      雑念も迷いも不安も疑いも頭の所業。
                                      身体の変化はまさに「今」起こっている現実だ。
                                      身体の変化に意識を遊ばせられる治療時間は、
                                      自己と向き合える貴重な好機。
                                      頭の中に居ついているのはもったいない。

                                      治療前後の検査で治療効果を理解するのも良いが、
                                      指摘される前に自分で変化に気づける方がずっと良い。
                                      そうやって心身の変化を繊細に感じ取れる感覚を育ててゆけば、
                                      日常においての不調和・違和感に気づきやすくなり、
                                      大事に至る前に対処できるようにもなる。
                                      見過ごしていた小さな幸せにも気づいてゆけるようになる。
                                      聞きとがめていた心無い声も気にならなくなる。
                                      ストレスが減れば治療効果もいや増してあがってゆく。

                                      健康とは健心康体。
                                      健やかな心と康(安)らかな身体。
                                      さて、主役はダレだろう。



                                      今日、久しぶりに雪が積もった。
                                      雪国育ちの人には飽き飽きだろうが、
                                      未だに雪には子供のようにワクワクする。
                                      身を締め付けるような寒気も冬らしくて心地よい。

                                      「寒い寒い」と嘆く人もいるが、昔はもっと寒かった。
                                      毎朝凍った水たまりを踏み割りながら登校したものだ。


                                      嘆いたって何も変わらない。
                                      けれど、嘆かない自分に変わることは出来る。
                                      畢竟、自分を育てられるのは自分だけやわなぁ。



                                      『心ここに在らざれば
                                      視れども見えず、聴けども聞こえず、
                                      食らえどもその味を知らず』(大学)


                                      漢方鍼灸専門 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/

                                       
                                      | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 17:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
                                      主人公
                                      0
                                        読書が好きだ。それは子供の頃から変わらない。
                                        お蔭で部屋は本の山だが、こればかりは如何ともしがたいところだ。

                                        見知らぬ地や国の身も知らぬ人が
                                        それぞれの価値観や経験、感動から紡ぎだした言葉から、
                                        その想いや考えに触れることが出来る。
                                        会えるはずもない過去の人達と対話することができる。
                                        自分ひとりでは決して気づけない事、知れる筈もない世界に
                                        触れることができる。

                                        知らないこと、新しいことを知り学ぶことはもちろん単純に楽しい。
                                        けれどそれよりも、自分の学んできたことや考えてきたことの過ちや
                                        偏りに気づかされ、世界が広がってゆくことが何より楽しいのだ。


                                        同じ本を読んでもそこから読み取れるもの、
                                        くみ取れるものは人によって違うし、
                                        過去に気づかなかったことが今日読んで分かる、
                                        味わえるということもある。
                                        本を読むということは他者の経験や考えや感情を共有し、
                                        時に共感し、時に反論し、思考を深めてゆくという作業であるが、
                                        洞察力や読解力はもちろん、自分の心や感覚の柔軟さ、
                                        思考の偏重さを問われるということでもある。

                                        今、自分は何に魅かれ、それをどう受け止め、
                                        どんな風に感じ、どう考えるのだろう。
                                        何に魅かれず、何に気づかず、何にとらわれるのだろう。
                                        それは自分と向き合うということではないだろうか。


                                        トレーニングや武術で受けをとってもらう、
                                        そして誰かに身体を診てもらうことも好きだ。
                                        相対する人がいるからこそ、対する己の心が身体がどう動くのか
                                        そしてどう動けないのか、動かないのかに気づくことが出来る。
                                        一人では決して気づけない自分の癖や問題点に気づくことができるのだ。

                                        心身を通して得られるその楽しさは
                                        二次元の書物から得られる楽しさの比ではない。
                                        より具体的でより芳醇な明日へのヒントが内包されているのだから。
                                        それを足掛かりに日々に創意工夫していくことは、
                                        一見変わり映えのしない何気ない日常を楽しい稽古の場に変えてくれる。

                                        人との距離、挨拶、選ぶ言葉、間、受け取る言葉の背景・・・・。
                                        心身の感覚は心掛け次第で硬くも柔らかくもなり、
                                        強くも弱くも、広くも狭くも、鋭くも鈍くもすることができるのだ。


                                        だから、当院ではよく患者さんにお話しする。
                                        「ここはお身体と対話し理解する場所ですよ。」
                                        そして
                                        「感覚を育てる場所ですよ」と。


                                        実際医療はどこまでも治る手助けでしかない。
                                        治すのは自然治癒力なのだから。
                                        殊に鍼灸治療は気・血・水という人体を流れるエネルギーの循環を
                                        整えてゆく治療であって、物理的に身体の一部を削除したり挿げ替えたり、
                                        薬物を投入するわけではないから、その意味合いはずっと強くなる。


                                        治療に臨む御本人の在り方。
                                        それは非常に重要な要素だ。



                                        例えば癌を手術で削除してもそれだけでは癌になる前に戻っただけ。
                                        臓器摘出までに至れば、病巣が無くなった事は良いこととしても
                                        「本来あるべきものを失った」という状況を完治と呼べるだろうか。

                                        癌になるような心身の在り方自体を見つめ、養生しなければ
                                        それが元の木阿弥という哀しい結末を引き寄せないとは
                                        言い切れまい。

                                        「症状さえ無くなればよい」
                                        という発想から卒業しない限り、本物の健康などほど遠い。


                                        「お身体と向き合ってゆきましょう」
                                        「症状の変化ではなく、お心身全体の変化に意識を置きましょう」


                                        元々感覚の柔らかな人、素直な人ほど心身は
                                        見違えるように変わってゆく。
                                        慢性的病態によって感覚が鈍磨している人でも、
                                        心の耳を澄ませ、静かに意識していると次第に感覚が磨かれ、
                                        治療を通して心身が変わっていく喜びと楽しさを知ってゆく。
                                        磨かれた感覚は日常に活かされ、ストレスは減り、
                                        喜びは増え、益々心身は充実してゆく。

                                        姿勢・立ち方・歩き方・座り方、思考癖や精神・情緒の偏重、
                                        食事の在り様、人や環境や季節の変化との対し方。
                                        自分で変えられる伸び代は沢山あるのだから。


                                        一方、自分の感情や考えに縛られている人、
                                        仕入れた健康情報に固執し振り回されている人、
                                        治療に依存的になっている人、症状だけにとらわれている人などはその分、
                                        治療に対する身体の反応を自ら制限してしまう。
                                        気づきと成長の機会をむざむざ捨ててしまう。
                                        心身の負担になっている日常の在り方を変えようとはしないから、
                                        せっかく治療で整えた心身も自分で崩してしまう。


                                        そんな人たちにも、もっともっと、
                                        ご自分の身体を理解すること、信頼することの大切さと
                                        治療を通して得られる楽しさ・喜びを伝えてゆきたい。
                                        意識ひとつで身体は変わってゆくのだと。
                                        あなたの身体はそれだけの可能性を秘めているのだと。

                                         


                                        さて、これはちょっと寂しいお話。
                                        整骨院に勤めていた頃は、世間話や慰安的施術、
                                        或いは必要以上の慰安的人間関係など治療以外の何かを期待し、
                                        且つそれを目的にしてしまっている人は少なくなかったが、
                                        幸い当院に来院中の患者さんの中にはそういう方はほぼいない。

                                        そういう来院目的が根本的にずれてしまっている方は
                                        同じ教室にいても後ろを向いて寝ているようなもの。
                                        関西弁でいう「寄ってない」状態。
                                        水を注ごうにも受ける器がなければ、注ぎようもないではないか。
                                        哀しいかな、お目覚めになるのをじっと待つばかりである。

                                         


                                        「立たせてくれ、歩かせてくれ」と叫びながら、
                                        寝ころんだまんま、自ら立とうとはしない人。
                                        震えながら、苦しみながら、つまづきながら、涙を流しながら、
                                        それでも懸命に立ち上がろうとする人。

                                        あなたなら、どちらの主人公を応援したいですか?




                                        「おのれこそおのれのよるべ  おのれをおきて誰によるべぞ
                                         よくととのえし おのれこそ まこと得難き よるべをぞ得む」
                                                     【発句経=ダンマパダ】(友松円諦 訳)

                                        漢方鍼灸専門 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/
                                        「おのれこそ おのれのよるべ おのれをおきて誰によ おのれこそ  まこと得難き よるべをぞ得む
                                        | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 17:02 | comments(0) | trackbacks(0) |