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加古川市の根本治療専門院
鍼灸治療院きさらぎ 院長の独り言

ホームページでは伝えきれない役立つ情報、大切なメッセージ、
臨床雑話
治りたくない患者
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    「薬を断てない患者」という以前の記事内で

    「治りたくない患者」についてチラと触れたところ、

    もっと詳しく知りたい、との声があったので少し詳しく書いてみたい。

     

    『問わず語りとちゃうやんけ!』というツッコミは

    この際放っといて。

     

     

    「治りたくない患者」

    これはこのブログでも度々登場する「治す気のない患者」とは違う。

    後者は他人に治して貰いたい気持ちは満々だが、

    自ら積極的に養生に励んだり、医療指導を守り、

    セルフケアに取り組むのは嫌な患者のことだ。

    嫌な理由は至極簡単、

    「面倒なことやしんどいことは嫌」なだけのことである。

    要は楽して元気になりたいということだ。

     

     

    「治りたくない患者」は違う。

    彼ら彼女ら(以後彼ら)の中にも「治す気のない」要素はあるが、

    彼らは本質的に治りたくないのだ。

     

    そんな馬鹿なことがあるか、と思うかも知れない。

     

    もちろん、当人は本気で治りたいと思っている。

    元気になりたいと願っている。

    でなければ、治療を受けようとは思わないだろう。

    しかし、その心の一方では治りたくないのである。

     

    つまり顕在意識では症状が辛いからそこから逃れたい、

    解放されたいと思っているが、

    潜在意識下では、深層心理としては治りたくない、ということだ。

     

    出来うることなら目を逸らしておきたい何かしらの問題に

    元気になってしまったら、向き合わなくてはならない。

    病で居られたら、それに直面しなくても済む、避けていられるのだ。

     

    人間関係の問題、アイデンティティの問題、過去のトラウマ、

    他人に見せている虚勢や演技上の虚偽の自分に嫌気がさしているのに

    本来の自分を曝け出すのは恐い、などの自己不信・・・・。

    問題は様々だろう。

    いづれにせよ、きちんと向き合うのは

    恐い・辛い・しんどいことは分かっている。

    病の身で居られるなら、ずっとそこから逃げ続けていられる。

     

    顕在意識では病身で人に助けられることや

    人に迷惑をかけるのは嫌だとストレスを感じていても、

    無意識下では向き合うべき現実から逃げていられる、

    許してもらえる、優しくしてもらえるその環境を失いたくないのだ。

    失うことが恐いのである。

    或いはただただ愛情に飢えている、

    他者の愛情を試している、ということもあるかもしれない。

    治りたい表の心とは裏腹に治りたくないもう一人の私がいるのである。

     

    情緒的に不安定になる方も少なくなく、

    時には職場や家庭等で、

    「誰々から意地悪されている」

    「陰口を言われている」

    など幻聴に近い思い込みを持ったり、

    被害者意識が強くなっていく場合もある。

    病だけが唯一の逃げ場所なのだ。

     

     

     

    治療に対する身体の反応や養生への取り組み方にも

    いくつかの特徴がある。

     

    治療院に来る方の殆どは、交感神経優位の緊張状態にあり、

    眉間のしわ寄せ(力み)や歯の噛みしめ、手指の強張りなど

    不必要な力みを程度の差こそあれ、癖として持っている場合が多い。

     

    眉間に皺を寄せるように力を入れてみよう。

    丁度、孫悟空の頭に嵌められた緊箍児(きんこじ)のように

    頭が締まって硬くなるのが分かるだろう。

    軽く口を開けた状態からぐっと歯を噛みしめてみよう。

    今度は首と後頭部の境ぐらいから顎の下を巡る、

    頭の下半分が緊張し、喉が締まってくるのが分かるだろう。

     

    眉間の力み、歯の力みは頭部全体を緊張させ、

    脳の健全な血行を阻害し、呼吸を浅くさせてしまう。

     

    また人間は手を器用に使うようになって脳が発達したと

    言われるように手と脳の関係は深い。

    手指の強張りも脳の血行不良、硬膜の緊張と深く関わっている。

     

    逆に言えば、眉間の力を抜き、歯の噛みしめを緩め、

    手を優しく柔らかく丁寧に使うことを心がけるだけでも

    脳の血行不良や硬膜の緊張の改善にはたらき、

    すばらしい自己治療にすることもできるということだ。

     

     

     

    当院の鍼灸治療の目的は、骨格系の歪みを整え、

    内臓の機能的均衡を整え、脳脊髄液循環、脳の血行不良を改善して、

    その人本来の治癒力を、その時点時点で最善の状態まで導くことにある。

    治療を受け入れる準備、身体の変化を受け入れる準備が出来ている人は、

    上記のような症状も治療を重ねることでもちろん自然に改善してゆく。

     

    特に頭蓋骨と仙骨の歪みの調整時には、

    深い部分の緊張が解け、弛緩していた部分は締まって、

    身体が深い呼吸、深いリラックス状態に入っていくので

    多くの方はその心地良さにウトウトとし、眠ってしまう方も少なくない。

    中には涎を垂らしてしまう方もいる。

    ※(治療後はスッキリと目が開き、頭が冴え軽くなります。)

     

    けれど「治りたくない患者」は、

    頭蓋骨から離れた、手足などにアプローチする遠隔的な治療や

    補助的な治療の際にはリラックスしていても、

    いざ上記のような中枢の治療に入ると

    通常の患者とは明らかに違った反応をする。

     

    もちろん、身体自体は鍼という静かな働きかけを受け入れて、

    それをきっかけに無駄な緊張を解いて、

    自ら整えよう、回復しようとする反応を見せる。

    だが、彼らは知らず知らずの内にそれに抗う方向にも力を発してくる。

     

    それは硬結や単なる力み癖による筋肉の硬さとは

    明らかに質の異なる硬さとして術者の手に、身体に伝わってくる。

    緩んでゆく力とは逆方向に、眉間の力み、歯の力み、

    首の力みなどを維持しようという緊張が同時に感じられるのだ。

    まるで心身が根っこから整うことを拒むかのように。

     

    だから彼らは、たとえ治療の前日に仕事などのストレスで

    よく眠れなかったとしても、治療中先ず眠ることはない。

     

     

    養生の取り組み方においても「治す気のない患者」の場合は、

    どんな養生法であろうと取り組もうとはしないが、

    「治りたくない患者」の場合は、顕在意識では「治りたい」ので

    各種エクササイズや自宅施灸など

    行うのに時間や場所が必要な、かつセルフケアとしては

    補助的なものには割合積極的に取り組む方が多い。

     

    しかし、先ほど紹介したような

    • 眉間の力を抜く
    • 歯の噛みしめを止める
    • 手指の力を抜く、柔らかくやさしく使う

     

    或いは呼吸の練習など、

    時間も場所も限定されず、いつでもどこでもできる、

    且つ脳の緊張や血流の改善にダイレクトに関わることには

    積極的には取り組まない。

    身体を治してしまうかもしれない取り組みを

    無意識の内に避けてしまうのかも知れない。

     

     

    そのような状態でも治療を重ねてゆけば、

    内臓機能が整い、骨格が整ってゆくことで、

    次第に低下していた体力は高まり、疲れにくくなったり、

    ぐっすり眠れるようになったり、

    話す気力もなかった人がよく喋るようになったり、

    伏し目がちだった人が他人の目を見られるようになったり、

    頭蓋骨の歪みが取れて小顔(正常化)になったり、

    肌艶が明るく美しくなったり、笑顔が増えたりなど

    心身の状態は必ず改善してゆく。

     

     

    しかし、例えばうつ病は自殺等のリスクがあるため、

    治りかけが最も精神的に危うく恐いと言われているように、

    そこまででないにしても、「治りたくない患者」も

    そのように体調が良くなってくる時期にはある種の危うさがあり、

    皆同様の反応をすることが少なくない。

    突然、治療を途中で止めるのである。

     

     

    いきなりフイと連絡なく止める人もいるし、

    仕事や金銭面などの理由を挙げて止める人もいるが、

    中には治療の自分にとって良くない部分、

    例えば、

    「打って欲しいところに鍼を打ってくれない」

    「他の鍼灸院のような響かせる鍼を打ってくれない」

    「電気鍼をしてくれない」

    「長時間の治療をしてくれない」など、

    つまり治療を止めるのに都合の良い理由を

    今まで喜んで受けていた治療の中に探すようになったりもする。

     

    時には「止めるに足る理由」を頭の中で作り上げ、

    現実の記憶として認識し、信じてしまう人もいる。

    院としては不本意だが、本人に悪気はないし、

    どうすることもできない。

     

    ここまでくるとスピリチュアルな問題で

    もはや医療の範疇ではないのかも知れないが

    悔しくも力不足を痛感せざるを得ない。

     

     

    「治りたくない患者」

    彼らはきっと、自分の心の奥底に閉じ込めたその何かと

    しっかり向き合わない限り、これからもいろんな治療を受けては、

    体調が良くなってきたらまた治療を止める、

    という堂々巡りを続けるのだろう。

     

    引きこもりの期間が長いほど社会復帰が難しくなるように

    病の内側に逃げ込んでいる期間が長いほど、

    その堂々巡りから抜け出すことは難しくなる。

     

    内側から鍵をかけているのは自分なのだと

    気づかれる日が早く訪れるよう

    祈るばかりだ。

     

     

    『三五

    こころは保ちがたく かるくたちさわぎ
    意(おもい)のままに従いゆくなり
    このこころをととのうるは善し
    かくととのえられし心は たのしみをぞもたらす

     

    三六

    こころはまこと見がたく まこと細微(こまやか)にして
    思いのままにおもむくなり
    心あるひとはこのこころを護るべし
    よくまもられしこころは たのしみをぞもたらす

     

    三七

    こころは遠く去りゆき またひとりうごく
    密室(むね)にかくれて 形(すがた)なし
    かかる心を制(ととの)うる人々は
    誘惑者(まよわし)の縛(きずな)を逃れん』

             発句経(友松圓諦訳)

     

     

     

    ※注:現在はコーチングを行っています。

    ご興味のある方はホームページをご覧の上、

    お気軽にお問い合わせください。

                   2017年

     

     

     

     

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    | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 12:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
    薬を断てない患者
    0

      『薬剤師は薬を飲まない』など、

      薬の危険性を訴える書籍や雑誌記事が増えている。

       

      実際、薬の多くは根本的な治癒には結びつかず、

      特に西洋薬の大半は症状を抑え込むことを目的とする

      対症療法的効果を狙ったものである。

       

      中には症状を抑えるには効果的な薬もあるだろうし、

      今の病態に合う薬もあるだろうが、

      どんな薬も長く使うほどに内臓に負担をかけ、

      自己治癒力を低下させてゆくのだから

      ずっと服用しつづけて良い筈がない。

       

      長期の薬の服用は肝臓はじめ臓器への負担となり、

      また脳への負担ともなる。

       

      ことに鎮痛剤や睡眠薬、向精神薬、安定剤の類は

      精神的にも肉体的にも薬への依存性を高めてしまう。

       

       

      『薬をやめるのが恐いんです』

      『やめた時の副作用が恐いんです』

      当院でもそんな患者は少なくない。

       

       

      厳密には断薬後に現れる様々な症状は、

      副作用というよりは、禁断症状だと言えよう。

      本来現出するはずだった症状が一気に出てくるのだから、

      その薬はただ症状を抑え込んでいただけで、何も治していなかった

      ということの証明でもある。

       

       

      早く止めればもっと早く身体は治癒されていくのにと

      使っている薬を持ってきていただいて、

      脳の拒否反応を表す筋肉反射テストなどをして、

      その薬が身体に合っていないかどうかを確認し、

      本人にも感じて貰い、止めた方が回復力が高まることを伝えるが

      医師ではないので法的立場上やめなさいとも言えず、

      忸怩たる思いになることも少なくない。

      合わない、害しかないと知った上で、その後どうするかは本人次第だ。

       

       

      もちろん薬によっては急にやめるのは危険な薬もあり、

      (それ自体がその薬がいかに危険かを物語っているではないか)、

      慎重に減らしていかなくてはならない場合もある。

      脳が気づかない程度のペースで減らしてゆくというやり方で

      断薬に取り組んでゆくわけだが、

      逆に脳のその薬への飢餓感を煽り、依存性が抜けにくい場合もある。

      まるで麻薬の一種ではないかとも思えてしまう。

       

       

      そして肉体的依存性もさることながら、

      より危険なことは薬への精神的依存性だ。

       

       

      『この精神安定剤があると安心なんです。』

      その薬をやめない限り、その不安定な歪な安心感、

      言い換えれば薬によって生まれ、あるいは強化された不安感から

      解放されることはないだろう。

       

       

      たとえば、ブロック注射で鈍らされていた神経が回復していく時には

      注射を打つ前より、痛みが強くなることはよく知られている。

      たとえば、長時間の下手な正座で足が痺れた後、

      血流が回復し、鈍麻していた感覚が戻るにつれ、

      痛みとも痒みともつかない感覚が訪れる様に、

      身体が回復してゆく時には、痛みそのほか様々な不快感に

      襲われることも珍しくないし、本来あるべき様々な症状が

      顕著に表れることもある。

       

      それは肉体としては正常な反応であって、

      その正常な反応を恐れ憎んでいては薬を断つのは難しい。

       

      たとえそれが不快な症状であれ、

      症状を受け入れ、症状に任せる。

      すなわち、自己治癒力を信頼する、ということが

      大変重要だ。

       

      薬に依存的になるということは、

      自己治癒力を信頼しないということであり、

      本人に信頼されていない身体が根本的に改善する筈もない。

       

       

      また、症状への不安から薬を断てない、

      薬自体の影響から薬への依存性が抜けない、

      というのが大半であるが、中には薬を飲み続けることが、

      周囲への「病人としての自分」の存在証明になってしまっている、

      病を何かからの逃げ場所にしてしまっている『治りたくない患者』もいる。

       

      これはこれで別の問題としてやっかいだ。

       

      いづれにせよ、不必要な薬、効いていない薬、

      無駄な薬を断てないのは何故なのか。

      今一度自分に問うてみることも必要なのではないだろうか。

       

      どんな変化も受け入れる静かな覚悟が生まれ育てば、

      きっと本質的な何かが変わり始めるだろう。

       

       

      『災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。

       死ぬ時節には死ぬがよく候。

       これはこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ』

                       良寛

       

      TEL 0794219353

      加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ  http://sinq-kisaragi.net



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      | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 22:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
      衝撃
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        鍼灸治療の内、複合的な内臓の機能失調や
        脳脊髄液循環の停滞の調整を主に、
        心身全体の治癒力・回復力の向上を目的に行う治療を本治法という。
        喩えて言えば、川の浄化作用そのものを高めるような治療法である。

        また当院では伝統的な東洋医学では軽視されている
        骨格上、構造上の歪みも重要視している。
        様々な内科的な問題は、すなわちソフトの問題は
        必ずハードである骨格、構造の影響を受けるからである。
        よって当院では、伝統的な東洋医学の枠を超えて、
        厳密な骨格診断の上で治療に当たっている。
        例えば氾濫や停滞などを生む川の流れの問題点を修正する
        いわば護岸工事のようなものである。


        さて、東洋医学には瘀血(おけつ)という考え方がある。
        狭義には抹消静脈の鬱血、すなわち血の停滞、
        或いは停滞した血そのものの事を指し、
        広義には瘀血が発生し、滞留するような病態を
        血瘀、瘀血証、或いは肝実と呼んでいる。

        停滞した血は新鮮さを失い、老廃物が増え、
        各組織を充分に栄養できなくなるため、
        様々な疾病の原因となり、治癒を遅らせる要因となるものである。


        この瘀血の解消に適した治療法として、「刺絡」という鍼治療がある。
        専用の特殊な鍼を使って瘀血所見を現わしている皮膚の1点を切開し、
        吸角(吸い玉)と呼ばれる減圧して真空を作りだす器具を使って、
        或いは吸角が使えない部位では手絞りで瘀血の排泄を促し、
        もって新たな血を呼び込み早期回復を期待するものである。

        川で言えば、川底に溜まった汚泥、瓦礫、ヘドロなどを掻きだす、
        言わば川浚いのようなものだ。
        効果的な治療法ではあるが汚泥を浚うよりも
        汚泥の溜まりにくい流れをつくる、
        浄化作用を高める本治法の方が大切であり、
        あくまで刺絡は本治法の補助的な治療であると言える。

        当院では打撲・捻挫、むち打ちなどの外傷や
        瘀血所見が顕著で病態の固定化が進んでいるような場合などの
        治療開始初期に1回から数回行うことがあるが、
        必要ないと判断したら、本人が望んでもすることはない。


        さて、最近ある患者さんから衝撃的な告白を受けた。
        アトピー様の皮膚症状に悩まれ、特に顔面の瘀血所見が顕著で
        女性であることから、治療当初に数回顔面への刺絡を行い、
        以後は本治法のみを行っている。

        全体として肌艶が良く明るく柔らかになり、
        背中の湿疹も腹部の緊張も取れ、むくみもなくなり、
        少ししか開かなかった口が開くようになり、
        顎のラインがスッキリとして小顔になり、
        夜もグッスリ眠れるようになったという。
        なのに彼女はほぼ毎回のように
        「血が出る血が出るタラタラ血が出る」とのたまうのだ。

        こんなに肌の肌理(キメ)が整ってきているのに
        血が出るなんておかしいなと思っていたが、
        よく聴いてみると
        「痒い部分をを自分で引っ掻いたり
        カサブタを剥がして血を出している」と言う。
        「血を出したらスッキリするから」と。

        んなアホな・・・・・。
        そんなことする人がいるなんて!!!。

        血が出てたんじゃなく、自分で傷つけて血を出していただけ。
        怪我したら血は出るでしょそりゃ・・・。


        そもそも瘀血は正常の血より粘着度が高いので
        刺絡してもジワ、ドロっと滲みだすように溢れてきて、
        必要量排出されればじきに止まってしまう。
        タラタラとは流れません。

        ハァ〜、溜息が出ます・・・。
        色んな人がいるもんですね。
        勉強になりました。


        けれど今回のことは、
        治療に依存的になって養生に励まない方が多い中、
        自分で出来ることは何でもしようと
        主体的に治療に取り組んだ彼女の姿勢を現わしており、
        それ自体は素晴らしいことです。

        ただやり方が間違っていただけで。
        想像だにできない突拍子もない間違い方で。


        しかし、間違いを間違いと気づけたなら改めれば良いだけ。
        今日改めることが出来たなら明日はきっと変わるし、
        そうすれば間違いも無駄にはならない。

        間違いを間違いと知って改めない、
        或いは間違いを間違いと認めない。
        そんな精神性が治癒への最も深く大きな障害となる。



        さて、良かれと思ってやっているあなたのそのやり方、
        間違っていませんか?


         

        『精要(まこと)なきものに精要(まこと)ありと思い
        精要(まこと)あるものを仮(あだ)と見る人は
        いつわりの思いにさまよい 
        ついに真実(まこと)に達(いた)りがたし 

         精要(まこと)あるものを精要(まこと)ありと知り
        精要(まこと)なきものを仮(あだ)と見る人は
        正真(すぐ)なる思いにたどりすすみ
        ついに真実(まこと)に達(いた)るべし 』
                                     法句経(友松圓諦訳)


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        | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 00:08 | comments(5) | trackbacks(0) |
        「患者様」さようなら
        0


          いつの頃からだろう。

          病院でも治療院でも「患者さん」を「患者様」と呼ぶようになり、
          「医療はサービス業だと認識せよ」という風潮が広まっている。

          ただでさえ、患者には「治して欲しい」という依存的な性質がある上に、
          このような風潮が蔓延するに従い、
          「治して貰って当たり前」
          「治して貰う権利」
          「治させてやる権利」のような
          おかしな「お客様意識」を持った横柄な方が時々現れるようになった。


          ご冗談でしょう。
          先天性・遺伝性の病や感染症など一部の例外を除き、
          あなたの今のお身体の状態は、昨日までのあなたがつくりあげたもの。
          「治そう」とせずにただ誰かに依存して「治して貰おう」も問題だが、
          自分で壊したものを「治して貰って当然」と
          患者であることにふんぞり返って。
          おかしいと思いません?

          あ、そうか。
          おかしいと思わんからそうなってしもとるんやわな。
          ゴメンナサイ。


          ホスピタリティだとか何だとか耳あたりの良いだけの言葉を隠れ蓑に
          ああして欲しい、こうして欲しい、
          こんな治療をして欲しい、症状さえ消してくれればいい・・・etc.
          患者の欲望に応えて満足して貰い、
          舌を出して銭勘定している医療サービス。
          そういう罠に嵌って心地良い人もいるんでしょうね。

          でも、そういうのが好きな人に告ぐ!
          当院ではそういうことはしませんから、期待しないでね。
          ゴメンナサイ。


          私はあなたを満足させようともさせたいとも思っておりません。
          あなたの苦しみに寄り添っても必ずしもあなたの願望には寄り添いません。
          あなたの お身体の要求 に応えよう、応えたいと思っております。
          ここ大事!試験に出るかも!



          「当院ではあなた様の希望に合わせた
          オーダーメイドの治療を提供致します」

          そんな売り文句の治療院、整体院がたくさんあるが、
          あなたの希望、あなたの願望に応えることが
          あなたの心身にとって良くない時はどないすんねん!!!
          (実際そういうケースの方が多い)


          ★症状別・病名別の専門院  
          病気を診て「あなた」を観ていないということです。

          ★症状消しの対症療法
          根本治癒の機会を奪っているということです。

          ★痛気持ち良い施術 
          あなたの身体を鈍らせ壊しにかかっているということです。

          私はそんなことはしたくない!!!


          当院の治療は基本的に繊細な痛みの少ない心地よい治療。
          けれど病態に応じて時には痛みを伴う治療をすることもある。
          あなたを満足させるのが目的ではなく、
          あなたの心身を整えるのが目的なのだから。


          その結果高まった治癒力があなたを治してくれる。
          治療が治すわけじゃない。私が治すわけじゃない。だって治せないもの。
          薬師如来じゃあるまいし。

          あなた自身の力があなたを治すのです。
          治療はその環境を整えるだけ。

          そして症状を通し、治療を通して自分と向き合い、
          心身の不調を招いた昨日までの在り方から卒業すべく、
          日々の暮らしを大切にすること。

          あなたこそが主役。

          これが本当の意味での「患者中心の治療」ではなかろうか。
          「患者様の欲望中心の治療」ではなくてね。



          当院はあなたの主体性とあなたの治癒力を信頼しています。
          さて、あなたはあなたを信頼していますか?




          『一大事とは今日只今のことなり
                    正受禅師


          加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ  http://sinq-kisaragi.net/


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          | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
          狂気と道理と快・不快
          0

            『症状だけ取ってくれれば良い。』

            そんな風に考える人が少なからずいる。
            自分の現状もそこに至らせた昨日までの在り様の問題点も知りたくない。
            ただ症状だけを消してくれれば良いと。

            しかしこれは同じ道を通ってまったく違う目的地へ辿り着きたい、
            というのと同じで土台無理な話だ。

            先天性の病など一部の例外を除き、
            多くの病の原因は本人の生活習慣の中にある。
            食習慣、姿勢・運動習慣、精神習慣の三つだ。

            原因を改めずに、結果だけをどうして変えられようか。
            対症療法で一時的に症状を消したとしても、
            原因が改善されなければ、いづれ再発したり、
            別の形で発症するのは当然の道理。

            道理を引っ込めて無理を通そうという意識自体が
            ひとつの病と言えるかもしれない。



            「健康オタクは早死にする」と言われて久しいが、
            様々な健康情報に振り回されている頭でっかちな人は、
            自分の体への信頼感に乏しい。
            信頼感が乏しいから情報に右往左往するばかりで、
            自分が本当に取り組むべきこと、取り組めることに気づくことができない。

            例えば「これは身体に良い」という食材を食べて満足する。
            本当に体がそれを求めているのかには興味がない。
            食べて体がどう反応するのかにも無頓着。
            「これは身体に良いのだ」と頭を満足させているだけなのだ。

            そんなことを続けていると
            体から発せられる快・不快の声が聞こえなくなってしまう。

            本能は避けたいもの、危険なものに触れると必ず反応する。
            例えば、すべてが適切というわけではないが
            古くから伝わる喰い合わせの智慧は、そういう反応、本能の呼びかけに
            古人が素直に耳を傾けてきた証拠だろう。

            例えば立って国産の干しシイタケと中国産の干しシイタケに触れてみよう。
            国産では何も起こらない。
            中国産では触れた途端に体が揺れ出す。
            体が重く、喉が詰まり息がしづらくなる。
            瞼が重く、視界が暗くなる。
            農薬に反応しているのだ。


            この立ち方は快か不快か。
            この座り方は快か不快か。
            スマートフォンは快か不快か。
            磁気ネックレスは快か不快か。
            5本指靴下は快か不快か。


            身体からの声に耳を傾けよう。
            自分の身体を信頼しよう。

            自分を信頼しなければ、生活習慣の改善に取り組める筈もない。
            医療に依存的にならざるを得なくなる。
            けれど、治すのは自分の治癒力そのものであって、
            医療はどこまでもその手助けなのだ。

            杖に寄りかかっていては歩くことはできない。
            杖の支えを借りながらも、自分の力で歩こうとしなければ。



            『狂気。それは同じことを繰り返し行いながら、違う結果を期待すること』
                          アルベルト・アインシュタイン(真偽不問)


            加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ  http://sinq-kisaragi.net/


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            | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 11:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
            自分の感受性くらい
            0

              普段車で通りすぎる道を自転車で走ると
              こんな場所にこんな店があったのかと気づくことがある。
              普段自転車で通う道を歩いてみると
              こんなに多くのものを見落とし見過ごしてきていたのかと
              愕然とする。

              そんなことは誰にもあるだろう。


              集中するということは、基本的に良いことのように認識されやすいが、
              焦点が絞られれば絞られるほど、
              その範囲外のものには気づきにくくもなる。

              そして、見落としたものの中にこそ、
              本当に観なければならないことが転がっている、
              ということも少なくない。


              先日初診で見えた60代と40代の母娘。
              ともの色々な鍼灸院を巡ってきたという。
              曰く「効果を感じないし、感じてもすぐ戻ってしまう」

              先ず母であるMさんの診察から。
              各種の検査の模様や立っている姿勢、
              足踏み時の安定感、両手の拳上ぐあい、
              顔の輪郭、肌艶、目の大きさ・輝きなどを
              娘のHさんにも観察してもらう。

              治療後、同様の検査をする。
              姿勢、安定感、肌の明るさ、顔の締まり、
              目の大きさ・輝き、両手の拳上具合など
              すべて明らかに改善。
              Mさん曰く「よく分かりません」
              Hさん曰く「全然違う!」

              傍から見れば明らかに改善していても
              本人はその変化に気づけないのだ。
              それだけ自分の体に対する感度が下がってしまっているということだ。
              実際こういうことは少なくない。

              色々な治療院をさまよい巡る「治療院ジプシーさん」の
              身に起こっていることの多くはこれだ。
              もちろん、適切でない治療・いい加減な施術のため、
              「効果を感じない」こともあるだろうが、
              適切な治療を施し、確かな結果を出しても
              「効果を感じない」ということは珍しくないのだ。

              これは個々の症状云々よりも深刻な問題だ。
              症状と言う悲鳴を上げなければならない状況まで
              心身の調和の乱れを放っておいたのは、
              その感覚の鈍さ、心身の変化に対する無頓着さなのだから。



              病や症状というものは原因もないところから、
              いきなり生まれてくるものではない。
              必ず原因があってその結果として出てくるものだ。
              心身の不調和が先なのだ。

              故に治療の道行もまた
              不調和を整えることが先であり、
              症状の改善はその結果として後から訪れる。

              症状の改善の速さは心身の不調和、その状態の如何により変わる。
              症状の強弱軽重には関わらない。
              症状が軽く見えても状態が悪ければ改善にも時間がかかるし、
              症状が重く見えても状態がそれほど悪くなければ
              改善は速くなる。

              症状がいつかの症状と同様だからといって、
              若い頃と同じような速度で治る、とは限らない。
              慢性化し固定化された症状の背景には、
              それだけ深く心身の不調和状態が根を張っているのだから。

              症状だけに捉われているとそんな当たり前の道理や
              症状以外の心身の変化、状態の改善にも気づけなくなる。

              症状だけに捉われるということは、
              非常に身体的感度を鈍らせ、
              精神的視野を狭くするのだ。


              思考癖、価値観、先入観、願望、経験などによって拵えた
              色つき顕微鏡で見える小さな世界を
              これが世界のすべてと信じて覗き続けている限り、
              プレパラートの外の遥かに大きく広がる世界の在り様を、
              その豊かな変化を知ることはできない。



              この度Mさんは娘のHさんのおかげで
              自分の感覚が相当に鈍っているのだということに
              気づくことができた。
              これは大切な大切なスタートライン。
              自分の現状、現在地を知ってこそ、
              前へ進むことができるのだから。




              マイク感度を上げて小さな音を拾うように
              心身の変化に対する感受性を高めよう。
              心と身体の無駄な力みを打ち捨てて。





              『ぱさぱさに乾いてゆく心を
               ひとのせいにはするな
               みずから水やりを怠っておいて

               気難しくなってきたのを
               友人のせいにはするな
               しなやかさを失ったのはどちらなのか

               苛立つのを
               近親のせいにはするな
               なにもかも下手だったのはわたくし

              (中略)
               
               自分の感受性くらい
               自分で守れ
               ばかものよ』
                        茨木のり子「自分の感受性くらい」より



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              | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
              病の根っこにあるもの
              0

                『人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ』
                            ウィリアム・ジェームズ



                ホームページでも当ブログ内でも再々触れてきたが、
                先天性の病など一部の例外を除き、
                多くの病や疾患の原因は本人の生活習慣の中にある。

                ●姿勢・運動習慣(立ち方・歩き方・座り方など体の使い方)
                ●食習慣(食べ過ぎ・偏食・食べ方・サプリメント過多など)
                ●精神習慣(思考癖・信念・先入観・価値観・経験則・トラウマなど)

                このうち最も大切なものは精神習慣。
                すなわち心の問題。
                考え方の癖。
                情緒的偏重。
                最も深く病と関わり、それゆえに最も治癒への制限因子となりやすい。


                しかし、多くの患者さんは病や症状の原因を
                もっと直接的なところに求めたがる。
                姿勢や運動習慣、食習慣の問題点を認めても
                (それさえ認めない人もいるが)
                精神的問題は認めたくない。
                なぜなら、自分と向き合いたくないから。
                もっと安直に納得できる、都合の良い答えが欲しいのだ。

                鍼や灸という働きかけに
                内臓・筋骨格・気血水・自律神経・脳脊髄液循環など
                肉体は必ず反応してくれる。
                素直な方、変化を受け入れる準備が出来ている方は、
                同時に精神状態も向上し安定してゆくが、
                準備が出来ていない人はその思考癖や思い込みによって
                その変化を止めてしまいやすい。


                自分と向き合うことはしんどい作業。
                けれど向き合わなくては始まらない。
                原因から目を背けてしまう人は、
                治療にも対症療法的効果ばかり求めがちになる。

                他に良い薬があるのではないか、良い治療法があるのではないかと
                情報を掻き集めて外側を向くばかりで、自分と向き合わぬまま
                色々と治療院をさまよう人もいる。
                他の病気ではないか、何かもっと重い病気ではないのかと
                自ら苦しむ人もいる。

                「長年患ってきた病がそう簡単に良くなる筈がない」と
                心を硬くして治療を受け入れない、
                心身を変化させない準備をしてしまっている人もいる。

                中には良くなりたいと顕在意識では願っていても、
                潜在的には治りたくないと思っている人もいる。
                病を逃げ場所にしてしまっている人だ。


                病は心が作る。
                自分と向き合わないでいては治る病も治らない。



                「こころ」の語源は凝る(こごる)という説が有力だそうだ。
                環境・教育・経験その他、身に起こり、また見聞きする様々な事象、
                あれやこれやに捉われ凝り固まるもの、ということだ。
                持って生まれた気質に幾重もの心という捉われが合わさって
                性格となる。
                ゆえに性格とは後天的なものであり、変化してゆく性質のものと言える。
                でなければ、精神的成長の可能性もなく、学びの必要もないではないか。

                「私はこういう性格だから」というのは自分の認識、思い込みに過ぎない。
                思い込みが自分を縛っているだけなのだ。
                自分の可能性を削っているのは誰でもない、自分なのだ。

                「私はこれでやってきたから」と開き直ってみても何にもならない。
                その古いやり方が間違っていたから、現在の不調があるのだ。

                 

                『過ちて改めざる 是(これ)を過ちと謂(い)う』


                当院では治療前に数分横になってもらうことにしている。
                心身を休めるとともに自分の身体の現状を観察し、
                治療を受け入れる心身の準備をしていただくための時間だ。
                疑いや恐れ、願望、情報など余計な捉われがないほど
                自ずと治療効果は高まるからだ。

                いつもギリギリに来られる人や自分の考えでいっぱいの人は
                受け入れる用意が出来ていない分、治療効果は制限される。
                医療指導も助言も、聞く準備が出来ていない耳には届かない。

                満たされた器に水は灌げない。
                空っぽなほど新しい水を受け入れられる。
                空っぽにできるのはご自分しかいない。


                自分には出来ないと思うなかれ。
                今出来ないからといって将来も出来ないとどうしていえようか。

                せっかちな話口調をゆっくりにしてみる。
                粗暴な言葉づかいをやめる。
                相手に届く挨拶をする。
                「すいません」「どうせ」・・・卑屈な口癖を止める。
                眉間に皺をつくらない。
                目線を高く保つ。
                やさしくやわらかく手足を使う・・・などなど。


                意志さえあれば誰でも取り組めることだ。
                「習い、性となる」と言われるように続ければ身に付き、
                それが新しい自分を育ててくれる。
                「出来ない」という思い込みは
                「出来ない自分」をより強固にしていくだろう。


                思考は足枷、実践こそ力。
                悩める自分など笑いとばせ。
                楽しいから遊ぶのではなく、遊ぶうちに楽しくなるのだ。


                加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ  http://sinq-kisaragi.net/


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                | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 08:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
                ショック〜!!
                0

                  整骨院に勤めていた頃、新人スタッフの技術研修の台となって
                  マッサージを受けるのが苦手だった。
                  (マッサージ資格のない者のマッサージは
                  クイックマッサージ店はもちろん、整骨院であっても違法です。)

                  マッサージを受けると必ず身体が強張り、
                  息がしづらくなり、頭がぼ〜っとして全身が重だるくなるからだ。
                  それは施術者が新人でも指導役のスタッフでも同じこと。

                  試しに自分の右手で左手を握ってみるといい。
                  そっと包み込むように持てば何も起こらない。
                  しかし、ギュッと握ってみたらどうだろう。
                  一瞬で身体が硬直するのが分かる筈だ。

                  自分で握っても身体はそう反応するのだから、
                  他人にされればそれは避けようがない。

                  反射的に硬直した状態の筋肉を
                  体重を乗せた力でグイグイ揉めば筋線維も毛細血管も傷ついていく。
                  それによって一時的に血行が良くなったり、
                  温かくなって気持ち良いと感じたとしても、
                  切り傷が治癒していく時、その部分の皮膚が硬くなるように
                  筋線維も修復される時には硬くなる。
                  硬くなった筋肉は血行が悪くなり、
                  神経は栄養されづらくなり、感覚が鈍っていく。
                  また、組織を傷つけられた脳は防御反応として
                  次のマッサージに対して身体を硬直させて身構える。
                  マッサージ慣れした人が強いマッサージを受けるほど、
                  鉄板のように筋肉が硬くなり、より強い刺激でなければ
                  満足できなくなるのはそのためだ。


                  「痛気持ち良い強さ」なら良いと考える人もいるが、
                  今言ったように強いマッサージを受けるほどに感覚は
                  鈍磨していくのだから、「痛気持ち良い」というその閾値も
                  どんどん上がってしまう。
                  鈍磨した感覚が満足する「痛気持ち良い強さ」のマッサージを
                  受け続けることでより強い刺激でしか満足できない身体になってしまう。

                  慰安目的ならそれでも良いだろうが
                  治療となればそうはいかない。
                  時には要求に応えない、という事も重要なのだ。
                  お身体のためにならないことを
                  求められたからと言って応えていては治療にならない。


                  例えば、猫背の人は多いが、この場合背中の筋肉は
                  引き伸ばされた状態で硬くなっている。
                  縮んでいるのは前側(胸・腹側)だ。
                  なのにマッサージでより時間を割かれるのは背中の施術。
                  さらに背中をゆるめて伸ばしてどうする。
                  より猫背になっていくではないか。

                  マッサージ後、しゃんと背筋を気持ちよく伸ばせているだろうか。
                  ※(「背筋が伸びている」という状態は
                     実際には背中側の筋肉は程よく収縮している。
                     収縮することによって背骨が伸展する。)

                    
                  「気持ち良かった〜」といいながら肩・腕をだらりと
                  下げてはいないだろうか。
                  施術直後だというのに、肩や首をグルグル回したり、
                  背中をゴソゴソ動かしたくならないだろうか。

                  それはそのマッサージが慰安にはなっても
                  治療にはなっていなかったということだ。

                  鈍った感覚によって気持ち良いと感じたとしても
                  身体は良くない刺激に対しては拒否反応をしているものだ。
                  患者も施術者も「症状取り」に気を取られていると
                  重要なその反応を見逃してしまう。


                  身体は強刺激や不適切な刺激に対しては必ず硬直する。
                  皮膚は弾力を失い、筋反射は低下する。
                  やさしい働きかけでなければ心身は良い方向には反応しない。

                  上手なマッサージ師の施術はごくごくやわらかいものだ。
                  マッサージを受けるならそういう施術者を探すことが望ましい。
                  鈍った感覚では物足りないだろうそんな繊細なマッサージを
                  心地良いと感じられる感覚を取り戻すために。




                  通院されている女性で、状態も改善してきたので、
                  治療間隔を空けてみたが、なかなかそれから先へ進まない方がいた。
                  医療指導も出来る範囲で守り励んでおられる素直な方だ。
                  なのに整えた状態をこちらの予想以上に崩して来院されるのだ。
                  介護職の方なので心身ともにストレスを受けやすいせいかなと思っていた。

                  先日の治療の際、背中を見るといくつか丸い跡がある。
                  嫌な予感。
                  「これは何ですか?」
                  「整骨院に行って・・・」
                  やはり。低周波等のパッドの跡だ。
                  ということは・・・。

                  「マッサージを受けられましたか?」
                  「はい、こちらの治療の合間に」

                  原因判明。


                  強い刺激のマッサージの後は、
                  身体全体が強張り重だるく、
                  身体にまとまりがなくなり、
                  重心の横ブレが大きくなり、
                  風呂上がりのように
                  頭がぼーっとして目は開きにくくなる。

                  適切な鍼灸治療の場合は
                  施術中ウトウトとしても
                  施術後は頭や瞼がスッキリと軽く、目が開きやすくなる。(注1)
                  背中が楽に伸ばせ(注2)、身体の中心を感じやすく、
                  身体がまとまってブレが少なくなる。

                  治療目的も結果もまるで逆方向。
                  いくら整えても崩れてしまうのは当然だ。


                  「ショック〜!!
                  ショックです〜!!」


                  良かれと思ってしていたことが
                  治療効果を阻害していたと気づいて
                  動揺を隠されない。

                  気づけたのだから良いではないか。
                  気づいたら良くないことは止めれば良いだけなのだから。
                  気づけなければ止めることすらできない。
                  気づいてもやめない・・・、それはもう、ねぇ?

                  人に見てもらうと自分では気づけないことに
                  気づいていくことができる。
                  治療を受けるということの大きな意義のひとつだ。


                  私も時間の許す限り、人に見てもらいメンテナンスしている。
                  その度に何かしら気づきがあり、学びがあることが楽しい。

                  『学而時習之、不亦説乎
                   学んで時に之を習う 亦悦ばしからずや。』
                                 論語「学而篇」



                  気づけば取り組むことができる。
                  取り組むということが大事だ。
                  思考癖など、いきなりガラリと変えることは難しい事もあるが、
                  もちろん、完璧を求める必要はないし、求めてはいけない。
                  もとより完璧などというものはないのだから、
                  それはただ要らぬストレスをかけていくことになりかねない。

                  少しづつ少しづつ、1mmでも先へ進めたのなら万々歳。
                  現状維持も結構。後ずさりしても何のその。
                  「取り組む私」を褒めてやろう。
                  取り組むという主体的姿勢自体が、
                  治癒力の高まりにつながっているのだから。



                  さて、件の患者さん。
                  この度はマッサージを受けずにご来院されて一言。

                  「体が軽いです!」



                  『よきことをしたるがわろきことあり、
                  わろきことをしたるがよきことあり』
                  『人のわろきことはよくよくみゆるなり。わが身のわろき
                  ことはおぼえざるものなり。わが身にしられてわろき
                  ことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候ふと
                  おもひて、心中をあらたむべし。ただ人のいふことをば
                  よく信用すべし。わがわろきことはおぼえざるものなる
                  よし仰せられ候ふ。』
                  蓮如上人御一代記聞書


                  注1:普段眠れていない人は眠くなることもある。
                  注2:背中が伸びるとは文字通り、「伸展」するのであって
                  お腹を突き出して過度に背骨を反らしたいわゆる
                  「気をつけ」姿勢ではない。

                   

                  TEL 079-421-9353 

                  加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/
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                  | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 16:00 | comments(0) | trackbacks(0) | 昨年の記事
                  良くなる患者さん 難しい患者さん
                  0

                    誰からも愛される人も
                    誰からも憎まれる人もないように
                    誰からも喜ばれる治療というものもない。
                    心の内側から鍵をかけている人を
                    助けることはできない。


                    先日ホームページで当院を見つけて
                    ご来院された年配のご夫婦。

                    それぞれ予診表に必要事項を記入して頂いた後、
                    「どちらからでも結構ですよ」と言うと
                    ご主人がお前が先にと奥さんに勧められる。

                    奥さんの診察を終え、
                    ご主人の診察に入る。
                    問診中、腕をずっと組んだまま、
                    あまり目も合わさない。

                    ご主人は鍼治療の経験があるようだ。
                    どんな治療でしたかと訊けば
                    「普通の鍼治療」

                    鍼治療といっても院によって千差万別。
                    同じ理論、同じ流派でさえ、
                    治療家によって治療の仕方は変わる。
                    そんな実状を知らなくても
                    自分が受けた治療が鍼治療として「普通」なのだと
                    思い込んでしまっている。

                    すべてのラーメン店のラーメンは
                    自分がイメージするラーメンと同じはずだと
                    言っているようなものだ。


                    主訴は肩こりだが、かなりの猫背で姿勢が悪い。
                    これが先ず改めるべき原因ですよと伝えても
                    「自分はずっとこれだから」

                    原因を改めなければいくら治療を重ねても無駄ですよ、
                    治す気がなければ治りませんよと伝えても
                    無表情、無反応。

                    こういう方の治療は実際難しい。
                    症状云々の話ではない。


                    先ず、鍼治療の経験のある自分ではなく、
                    初めての治療院で初めて鍼治療を受ける奥さんに
                    先に治療を受けさせたこと。

                    鍼経験の有無の欄を確認せず、
                    主訴がともに慢性的な肩凝りだったので
                    どちらからでもとつい振ってしまったのは私のミスだが
                    ご夫婦やカップルで初めて受診される場合、
                    一方が鍼治療経験者ならその方が先ず治療を受けられることが多い。
                    自分が先に受けて連れ合いを安心させようという
                    自然な気遣いだろう。

                    問診中ずっと腕組みをされていたが、こういう方も珍しい。
                    そもそも腕組みをして問診を受ける方はいない。
                    初めての治療院で不安があっても、
                    皆さん、症状や自分を理解してほしいと思ってらっしゃるので
                    腕組みをした不遜な態度で話す人などいないのだ。

                    そして腕組みとはそもそも心理学的に防御姿勢。
                    顕在意識として治療を求めていても
                    潜在意識としては治療を拒否しているということだ。
                    いくつかの問いにも目を合わさず、
                    投げ捨てるように答えるだけ。
                    自分が受けた治療を「普通」と言うのは、
                    自分の経験の枠内で思考が限られてしまっており、
                    違う鍼治療を受ける用意はないと言っているのと同じことだ。

                    自分のことだというのに、お身体の状態を説明しても
                    進んで聞いて理解しようとはされない。
                    「そんなことはどうでもいいから、早く肩に鍼を打て」
                    という態度なのだ。
                    どんな治療を受けてこられたかは知らないが
                    この方にとって鍼治療は肩こりの痛み取りでしかないのだろう。
                    もちろん、当院ではそんな対症療法はしない。
                    治療後、呼吸の深まり、脊柱可動域の向上など、
                    身体の改善を確認し、本人も認めたが無表情・無反応。
                    あくまで慰安的施術を求めていたのだろう。

                    当院では決して患者さんを「患者様」とは呼ばない。
                    「お客様」になってしまうからだ。
                    患いの主(あるじ)は本人であり、
                    患いの原因の多くは日常の習慣の中にあるのだから、
                    治すのはご本人なのだ。
                    治療はあくまでその手助けであり、それ以上のものではない。
                    その時点時点で最良の状態にお身体を整え、
                    整えた状態を維持し、活かすための助言・医療指導を
                    提供することが当院の役割だ。

                    治す気のない患者は治らない。
                    どれだけ治療によって身体を整えたところで、
                    同じ習慣、同じ負荷をかけ続けて治る筈がないのだから。



                    ピラティスやヨガ教室に通うような方は自ら変わろう
                    という意識が強いが、治療を求める方には変えて欲しい
                    という依存的な意識が強い方が少なくない。
                    治療開始当初は勿論それは致し方ないことではあるが、
                    依存心の背景には自分やお身体への信頼感の無さがある。
                    自分に愛されていない身体が
                    どうして健やかでいられるだろうか。

                    そんな依存的意識から早々に卒業される方ほど、
                    治療効果は上がってゆく。
                    お身体への理解と信頼が高まるにつれ、
                    治療に対する反応・感受性もまた高まるからだ。



                    さて、これは別の患者さん。
                    吃音に長年悩まれて当院の門を叩いてくださった若い女性。
                    仕事中にお客に電話対応するなど緊張した場面になると
                    言葉が出なくなるという。

                    吃音やその他精神状態と深く関わる病を患っておられる方は
                    症状を憎み、また自分への信頼感を失っておられる方が多い。
                    この方もそれが言葉や態度の端々に見受けられた。
                    けれど同時に変わりたいという思いも強い。
                    こういう方は良くなる。

                    胸を閉じ、肩を丸め、横隔膜と舌骨が上方に偏って硬く、
                    呼吸が浅い。顎下に無駄な緊張があり、舌根が堅い。
                    後頭骨の前方下降変位、右側頭骨屈曲・膨張、
                    左側頭骨伸展・圧縮、蝶形骨右捻転その他諸々の所見を認める。

                    改善点を指摘して姿勢を正して深呼吸してもらうと
                    肩首の緊張が取れ、胸が開き、呼吸が深く変わり、
                    頭も軽く、目も開けやすくなることを実感し、
                    びっくりしておられた。
                    まだ何も治療はしていない。
                    意識ひとつ、姿勢ひとつで身体は変わっていくのだと
                    この方はすぐに理解された。
                    これは良くなる。

                    やはり治療を始めると素直にお身体が反応する。
                    後はその反応をつぶさに感じ、認め、
                    歓びに変えてゆけるほど、
                    治療効果は高まってゆく。

                    治療中も症状に捉われ、してほしい事に捉われ、
                    はたまた病への憎しみや怒りなどの感情に捉われていると
                    せっかくの身体の変化を感じづらく、また変化そのものを
                    制限しやすいが、感覚の網の目を出来るだけ細やかにして
                    全身に張り巡らせていくほど、感受性は高まり、
                    受診時間のすべてが自分と向き合い、理解し、
                    身体を育ててゆく時間としてゆくことが出来る。
                    治療や身体の反応や助言を受け入れる用意の出来た
                    積極的な受け身は決して依存ではないのだ。
                    それは治したい変わりたいという強い意欲と向上心の上にあるのだから。


                    治療の数日後、
                    『今日、電話応対の第一声で声が出ました!
                    まだまだ無言の時間はありますが、
                    本当に本当に嬉しかったです!』
                    とメールを頂いた。

                    「マイナス思考の私」と彼女は言うが
                    良い変化を喜び、言葉に表現できる人が
                    根本的に「マイナス思考の私」である筈がない。
                    今はただマイナス思考な精神的習慣、
                    思考癖をつけてしまい、それが自分なのだと
                    思い込んでしまっているだけなのだ。

                    マイナス思考はマイナスの事象に精神の波長が
                    合ってしまっている状態。
                    プラスの事象があっても目に入らない気づけない。
                    プラス思考はマイナス思考を前提として
                    無理やりプラスに見ようとする思考なので
                    よりマイナス思考が深くなりやすい。

                    マイナスのものをプラスに見るのではなく、
                    プラスの事象をプラスの事象として気づける心、
                    素直に認め喜ぶ習慣を身につけることが大切になる。

                    もっと言えば、起こっている事象・現象に
                    そもそもプラスもマイナスもない。
                    偏った尺度でそう評価する自分がそこにいるだけなのだ。

                    『人間万事塞翁が馬』



                    残った症状残った症状に焦点が合ってしまう人は
                    日常においても要らぬストレスをかき集めてしまう。
                    日常的な愚痴、悪口、不平不満は
                    それに相応しく心身を歪ませ固定させてゆく。


                    残った症状があっても良い変化を認め、喜びに換え、
                    さらに言葉に表現できる人は、
                    明るい言葉を自ら聞く機会が増える。
                    発する言葉が明るいものになれば、
                    その言葉を聞く周囲の人たちの心も明るく和ませ、
                    結果益々心身は健やかになってゆく。

                    治療による身体の変化へのご本人の反応は、
                    日常の精神習慣がそのまま反映されやすい。
                    それだけに治療の場は
                    お身体だけでなく、ご自身と向き合い、
                    学べる場にすることが出来るのだ。


                    治療後、彼女は「何か自分でできることはないですか」と
                    訊いてこられた。
                    彼女はきっと良くなるだろう。



                    『境、順なる者は怠り易く 境逆なる者は勵み易し』
                    吉田松陰

                     

                    加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ  http://sinq-kisaragi.net/


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                    | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 17:37 | comments(2) | trackbacks(0) |
                    思い込みの恐怖
                    0

                      「幽霊の正体見たり 枯れ尾花」(詠み人知らず)

                      感情の偏重が本来無いものを見せたり、
                      思い込みや常識、経験、価値観などが障りとなって
                      本来感じられるはずのものが感じられなくなることは
                      少なくない。


                      先日の事。
                      アトピーを主訴に治療を始めて数回目の患者さん。
                      治療後、脊柱の心地よい伸び、呼吸の深まり、
                      筋肉の弾力、肌の質・色艶の改善などを感じて
                      喜んでおられた。

                      が、着替え後、受付の前に立たれた姿は
                      治療直後というのに見るからに重く硬く息苦しくなっている。
                      見ると首に黒い輪っかをかけていらっしゃる。
                      ハハ〜ン。

                      「それは何ですか」
                      「磁気のネックレスです。肩こりが良くなると聞いて・・・」
                      「では、喉の開き具合、息の深さ、肩首頭の重さなどを感じながら、
                      深呼吸してみてください。
                      ・・・・・では、それを外して見て下さい」

                      磁気ネックレスを首から外した途端、表情が変わる。
                      感覚の良い方なのでこの時点で気づき始めていらっしゃる。

                      「深く息を吐いて〜吸って〜吐いて〜。
                      はい。いかがですか?」
                      「全然違います!軽くなります!
                      外した時点で感じました!」

                      思い込みとは恐いものだ。
                      今治療を終えて、整った身体の心地よさを感じたところなのに
                      「磁気ネックレスは肩こりに良い」という思い込みが
                      その心地よさを消してしまったことに気づかせない。

                      脳は人体に有害なものに対して拒否反応を起し、
                      その途端に筋肉は硬く鈍く弱まってしまう。
                      感覚が鈍るので症状を感じにくくなる。
                      磁気治療器によって身体に起こっているのはそれだけのことだ。
                      症状が無くなるのではなく、感じられなくなるのだ。
                      本当に身体にとって良いことだろうか。


                      このような間違った思い込みは珍しくない。
                      例えば、冷え症対策としての生の生姜を使った生姜湯や生姜紅茶、
                      電気毛布に長時間の半身浴、サウナ、熱い風呂、五本指靴下などなど。

                      試してみて静かに身体の反応を感じ取りさえすれば、
                      「これは違うな」ということが分かるものだ。
                      その瞬間分からなくても、
                      長く使って症状が変わらなければ止めさえすれば良いのだが、
                      「これは身体に良いもの」という思い込みに縛られていると
                      適切な判断が出来なくなってしまう。
                      良かれと思ってしていることが自らを苦しめてしまう。

                      健康グッズだけの話ではない。
                      価値観、常識、トラウマ、願望、自尊心、虚栄心、怨み、羨み・・・etc。
                      あらゆる苦しみは執われから生まれる。


                      「病や症状の原因や増悪因子の多くは日常の中にあります。
                      症状を通し、治療を通して気づいたこと、知りえたことを
                      是非日常に活かしてください。」

                      当院で皆さんによくお伝えしていることだ。
                      きちんと受け止め、実践されている人ほど治療経過が良くなるが、
                      聞き流して実践しない方も少なくない。
                      勿体ないことだ。

                      治療はあくまで治癒へのサポートなのだ。
                      その時点で最も良い状態にお身体を調整し、治癒力を上げる。
                      気力が上がり、動きやすくなった身体は、
                      様々なことに取り組みやすくなっている。
                      その状態を活かさず、「ああ、楽になった」で終わって
                      改めるべきを何も改めずに同じ負荷をかけ続けてしまえば、
                      元も子もない。

                      「治療を受けてもすぐに戻ってしまう」と言って
                      ジプシーのように治療院巡りをしている方の多くは
                      このパターンに陥ってしまわれている。
                      もちろん対症療法しかしない(できない)施術院が
                      少なくないこともあるが。
                      戻してしまっているのは他でもない自分なのだと
                      気づき認めることがこの無限ループから抜け出る第一歩になる。


                      治療の場は心身の調整をする場であるとともに
                      ご自分の心身を観察し、理解を深める場。
                      気づきの場。
                      生まれ変わるチャンス。


                      ということに気づいてくださるといいなぁ。



                      『たとえ生命(いのち)のかぎり 師にかしずくとも
                      心なきひとは 正法(まこと)を知らざるべし 
                      げに 匙(さじ)は器につけども
                      羹味(あじ)を知ることなきがごとし

                      たとえ瞬時(またたき)の間  師にかしずくとも
                      心あるひとは たちまちにして正法(まこと)を知らん
                      げに 舌こそ羹味(あじ)を知るがごとし』
                      発句経(友松圓諦訳)

                      師はあなたの心身、その反応、症状そのもの。


                      加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ  
                      TEL 0794219353

                      公式サイト http://sinq-kisaragi.net/

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                      | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 12:00 | comments(2) | trackbacks(0) | 昨年の記事
                      マッサン
                      0

                        かつて上方落語の爆笑王、桂枝雀師匠は言った。
                        「笑いとは緊張の緩和である」と。
                        しかし、何を緊張と感じ、何を緩和と捉えるかは人それぞれ違う。
                        それだけに万人に受けるのは難しい、とも。
                        その難題に彼は最後まで苦しんだのだろう。


                        ウイスキーの売り上げが好調だそうだ。
                        ここ数年のハイボール人気に加えて
                        NHKの朝のテレビ小説「マッサン」の影響だろう。
                        サントリーのウイスキー部門を立ち上げ、
                        後にニッカウヰスキーを創り、日本のウイスキーの父と呼ばれる
                        竹鶴政孝氏をモデルとしたドラマである。

                        ドラマでは今、主人公亀山政春がサントリーならぬ鴨居商店にて
                        社長命令の大衆受けするウイスキーと
                        自分の理想とするウイスキーとの狭間で悩み苦しんでいるところだ。

                        これはどんな業界においても普遍的な提題だろう。
                        通好みか一般向けか。
                        理想に邁進するか妥協するか。
                        どちらを選んでも間違いではない。
                        徹底して大衆向けを目指す。それも一つの在り方だ。
                        しかし、妥協の産物の中に本物は残りえるだろうか。


                        ファーストフードやファミリーレストランなどの
                        濃く刺激の強い、誰にも分かりやすい味に慣れて、
                        また、そういう味を求める舌には精進料理や京料理のような
                        素材の旨味を活かした淡白な味は物足りないものになるだろう。

                        嗜好品ならば通好みでも大衆向けでも何でも構わない。
                        けれど毎日の食事、自分の肉となり血となる食事が
                        レトルト食品や外食のような濃い、くどい味ばかりに
                        なったらどうだろう。
                        現に食習慣の変化に伴って増えた病気は山とある。

                        好みの味ばかり求める舌は、
                        身体が真に求めるものを打ち消してしまう。
                        身体の声に気づける身体と気づけない身体。
                        どちらが健康的かは言うまでもない。


                        治療においても同様のことが言える。
                        慰安目的ならば「痛気持ちいい」強いマッサージでも何でも良いだろう。
                        ブロック注射や慢性期の湿布のように、正常な感覚を鈍らせる、
                        症状取り、痛み取りの対症療法も良いだろう。

                        けれど「治療」となればそうはいかない。
                        患者さんの鈍った感覚に合わせた強い刺激は益々身体を鈍くさせてしまう。
                        身体の正常な反応として表れた症状を
                        無理やり消してしまう対症療法も然り。
                        身体を鈍らせる施術を「治療」とは呼ばない。
                        少なくとも当院では。


                        症状は無理やり消せば良いというものではない。
                        それは心身が整い、治癒力が高まるに従い、
                        結果として改善されるべきものだ。
                        よって、当院では対症療法は基本的に行わない。

                        そしてそういう治療だと
                        根本治療なのだと理解して治療を受けるか、
                        症状取りや慰安を求めて治療を受けるか、
                        治療を受けるご本人の在り方も重要だ。

                        豚骨ラーメンを求める舌で精進料理を食して
                        その旨味がよく分かるだろうか。
                        精進料理を食べるならその心づもりの舌で食すのが相応しい。
                        その上でその旨味が分からないとしたら、
                        それを感じられないほど自分の身体が鈍っている
                        ということへの気づきにつながる。
                        素材の旨味に気づけない鈍った感覚に従って、
                        「精進料理はまずい」と判じてしまえばそれまでのこと。


                        当院では、患者さんの好みの味に合うように、
                        あれでもないこれでもないと
                        調味料をどんどん加えていくような施術はしない。
                        最終的にどこに鍼を打つことが適切か、
                        診察の段階で明らかにしてから治療が始まる。
                        必要最小限の働きかけをし、お身体の反応を俟つのみである。

                        治すのはご本人の治癒力そのものなのだから。


                        オーダーメイドの治療。
                        すなわち患者さんのああしてほしいこうしてほしいという
                        要求に従った治療は当院では行わない。
                        例えば「もっと薬の量を増やしてくれ、強い薬にしてくれ」
                        という要求に安直に従い応える医師を
                        あなたは信頼できるだろうか。


                        誰もが感じられる分かりやすい濃い調味料の味。
                        分かる人には分かる淡白な素材の味。
                        どちらを食べ続けるのが健康的かは明らかだし、
                        どちらを選ぶもそれぞれの自由だけれど、
                        当院はどこまでも理想の治療を追求し、提供したい。
                        あなたの欲求を満たす治療ではなく、
                        あなたのお身体の欲求を満たす治療を追求し、提供したい。
                        慰安院ではなく治療院なもんで。


                        自分、不器用ですから。
                        す、すぅヴぃぶぁせんねぇ。


                        さて、サントリーの
                        「シングルモルトウイスキー山崎シェリーカスク2013」が
                        イギリスの著名なガイド本「ウイスキーバイブル2015」で
                        「世界最高のウイスキー」に選ばれたそうだ。
                        その味が一般受けを狙った妥協の産物でないことは確かである。



                        『世の人は己れをなにともゆわばいへ 己なすことは己れのみぞ知る』
                        坂本 竜馬


                        加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ  http://sinq-kisaragi.net/


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                        | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 08:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
                        孔雀と時間
                        0

                          その孔雀は、移ろう四季の只中を
                          懸命に身を震わせて生きていた。
                          その姿のなんと美しいことか。

                          中国の至宝とも呼ばれている
                          ヤン・リーピンさんの舞台「孔雀」でのことだ。


                          公演の紹介CMでチラッと見た孔雀の翼を表現する
                          腕の動きに魅せられて舞台を拝見したのだが、
                          まず立ち姿が美しい。
                          50過ぎとのことだが20代にも見え、
                          民族舞踊出身というその身さばきは、
                          バレーのような体幹の硬さも感じられない。

                          表情は淡々と、
                          しかし、手は孔雀の頭、腕は孔雀の長い首を表し、
                          その情感を豊かに伝えたかと思えば、
                          肩甲骨から伸びる長い腕は
                          こんなに細やかに動かせるものかと思うほど
                          波のように小刻みにうねりながら
                          孔雀の翼を震わせる。

                          群舞で他の孔雀役のダンサーと交じると
                          一際彼女の存在感が輝きだす。
                          両腕を伸ばして仙骨の上に揃えて置くのが
                          孔雀の基本姿勢のようだが、
                          簡単なようでなかなか難しい。

                          他のダンサーたちももちろん皆一流なのだろうが、
                          背中や肩・首の緊張が見て取れ、どこか窮屈で
                          「孔雀を演じるダンサー」を感じてしまうのに対し、
                          ヤンさんの背中はまことに自由で
                          翼は翼として自然としてそこにあり、
                          まさに孔雀がそこに生きているのだ。

                          舞台演出もすばらしく、本当に良い作品だったと思う。
                          ただ職業柄というか武術を学ぶ者の性というか、
                          このような身体芸術を観る時には作品やその物語性よりも
                          身体の「動き」そのものに眼が向いてしまう。

                          まことに見事な舞なのだが、
                          坂東玉三郎や上方舞の亡き武原はんさんのような
                          胸の働きがあまり見ることができないのだ。
                          背中があれだけ自由なだけに
                          よりそこの動きの少なさを感じてしまう。

                          ほかのダンサー達に至ってはバレーの影響を
                          少なからず受けているのだろう。
                          体幹は四角いままで胸の働きは観られない。
                          どれだけ手足を大きく器用に繊細に動かしても、
                          身体の中心部、内部の動きがないと
                          それはただ忙しない動きとして映ってしまう。

                          別に武術をするわけでもないし、
                          物語の主題を十二分に表現できているのだからそれで充分であり、
                          作品としての価値が下がることはないのだが、
                          どうにもそこだけが気になってしまった。

                          あれだけ動ける彼女をしても動いていない部分というものは
                          意識できなければ問題とならないし、
                          問題と捉えなければ意識して鍛錬することも出来ないのだ。

                          このような高度な身体芸術を演じる一流の身体の鍛錬に比べれば、
                          日常における座り方、立ち方、歩き方などの姿勢の改善など
                          ほんの少しの心掛けひとつでいかようにも変えてゆける。


                          医療指導の一環として姿勢や身体の使い方の問題点を指摘し、
                          改善のヒントや運動を伝えたりすることが少なくないが、
                          「難しい」と言って実践しない人はいつまでたっても実践しない。
                          今出来ていないことをやろうとしているのだから、難しいのは当たり前。
                          出来ないことを出来るようになるために稽古するのだから、
                          「難しいからしない」という選択はありえないし、
                          実践しないことの言い訳にもならない。
                          それは単に「したくない」ということに過ぎない。

                          下手であってもやろうと思えば実践できることを実践する積み重ねの中で
                          身体は着実に変化してゆく。
                          やろうと思えば実践できることもしない積み重ねの中で、
                          身体も心も確実に鈍く偏ってゆく。
                          どうするかは自分次第。


                          さて、ヤン・リーピンさんの他に、
                          否、ヤンさん以上に目を奪われた人がもうひとりいた。
                          それはヤンさんの姪御さんで
                          後継者とも目されているというツァイ・チーさん。

                          まだ15.6歳だという少女は「時間」役として
                          舞台の端に設えられた生命の象徴としての木の下の檀上で
                          劇の序盤から幕間を含めて終幕まで約2時間余り、
                          延々と回り続けるのだ。

                          バレーのピルエットのように片足軸で回るのではなく、
                          両足を裁いて回るのであるが、
                          彼女の身体は同心円上の同じ円周上をほぼ狂いなく、
                          軽やかに回り続けるのだ。
                          しかも、四季折々の情感を切々と無言のまま歌いながら。

                          中国の生番組では4時間回り続けたこともあるという彼女。
                          なんという身体能力だろう。
                          どんな鍛錬をしてきたのかと思えば、
                          『子供のころから回るのが好き』で板の間の稽古場の
                          いつも回っていた部分だけ窪んでいたそうな。

                          好きこそものの上手なれというが、
                          どんだけ好きやねんと笑ってつっこんでおこう。

                          彼女がどんな風に舞うのか、ほかの舞も見てみたくなった。


                          つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、
                           心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、
                           あやしうこそものぐるほしけれ。』
                                    徒然草 吉田兼好



                          ひまやからて一日中硯に向かい続けられるやなんて、
                          そらもうそれが好きや〜ちゅうことです。
                          それが大事です。
                          自分育て、心身育ても好きになればええんです。


                          加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ  http://sinq-kisaragi.net/

                          | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 19:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
                          恩知らず
                          0

                            世の中便利になった。
                            便利になるにつれ、消費電力は増え、ゴミも増えている。
                            そのひとつの要因は使い捨て文化。
                            今や世界語ともなった「勿体ない」という精神さえ、
                            捨て去ろうとしている。
                            それはモノを大切にしなくなったということだ。

                            100円ショップで買った割れないアクリルグラスと
                            百貨店で買ったバカラのグラス。
                            あなたならどちらを大切に扱うだろう。

                            安物でいくらでも替えの利くものより、
                            傷つきやすい、壊れやすい代わりのないものほど
                            大切にするのではないだろうか。


                            では、あなたの心身はどうだろう。
                            いくらでも替えの利く安物だろうか。
                            それともかけがえのない大切なモノだろうか。

                            自分の身体は自分のものだから、
                            安物のように扱っても構わない。
                            悪しき生活習慣、不養生を改めようとしない人は、
                            潜在的にそんな風に思っているのではないだろうか。


                            『お身体を大切に』

                            それは身体を甘やかせということではないだろう。
                            今のあなたが「楽だ」と感じる在り方、習慣、
                            患いを引き起こし、或いは増悪させる不養生を
                            どうぞそのまま続けて下さいということではあるまい。

                            掛け替えのない大切なものだからこそ、
                            大切に扱ってくださいということだ。
                            祖先父母から頂き、多くの命に支えられながら生かされている命を
                            大切にしましょうということだ。


                            自分の身体は自分のものであって自分だけのものではない。
                            時間的にも空間的にも無限の縁に支えられて在る「私」の命は
                            同時に他の誰かの命を支え、影響を与えている命でもある。
                            心身の持てる潜在力を最大限に活かせるよう、
                            自分の在り方に責任を持ちたいものだ。

                            身体を大切にすること。
                            それは生かされながら生きていることへの恩返しの第一歩。

                            努々、恩知らずにはなるまいぞ。
                            恩知らずのままやりすごす人生。
                            そんなの勿体ないからね。




                            身體髪膚。受之父母。不敢毀傷。孝之始也。
                            身體髪膚  、之れを父母に受く、敢へて毀傷きしょうせざるは、孝の始なり。
                                                  『孝経』


                            加古川の根本治療専門院  鍼灸治療院きさらぎ  http://sinq-kisaragi.net/

                            | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 20:08 | comments(1) | trackbacks(0) |
                            症状は友達
                            0

                              「症状とは憎むべきもの。」

                              そんな先入観は早々に捨てることが
                              健康への近道だ。


                              症状とは身体からの警報であり、
                              自らを治そうとする治癒力の顕現そのもの。
                              心身の不調和をあなたに知らせつつ、
                              調整しようと身体が働いている証にほかならない。

                              ゆえに症状を憎み嫌うことは、
                              治癒力自体を嫌うことであり、自分の身体を嫌うことであり、
                              ひいては自分自身への信頼を失うことにつながる。


                              本人に信頼されていない身体が根本的に良くなる筈はない。
                              自分を信頼していない人は治療に依存的になる傾向があるが
                              治すのはあなたであり、あなたの治癒力そのものだ。
                              医療はどこまでもその手助けをするにすぎない。


                              これは非常に大切なことなので
                              ホームページにおいても再三述べているし、
                              患者さんにも治療当初から折りに触れてご説明している。
                              けれどなかなか誤った先入観から抜け出せない人が少なからずいる。

                              遺伝性・先天性の病など一部の例外を除き、
                              殆どの病や疾患の原因はあなたの中にある。
                              あなたの生活習慣の中にある。

                              過食・偏食やサプリメント過多などの食に関わる問題。
                              立ち方・座り方・歩き方などの姿勢や身体の使い方の問題。
                              考え方の癖、情緒の偏重、価値観・先入観など精神の問題。

                              上記3つの生活習慣が積み重なって今のあなたがあるのであり、
                              今のあなたの健康状態がある。
                              症状はそれらの問題点をあなたに知らせ、
                              それ以上身体の状態を悪化させないために必要があって出てきているのだ。

                               

                              症状を出す必要があるところまで自分の身体を追い込んだのは
                              誰でもない、あなた自身にほかならない。



                              症状という身体からの声に素直に耳を傾け、自分の身体への理解を深め、
                              自分の中に原因があることを受け入れ、生活習慣を改善してゆくこと。
                              それを養生という。

                              養生あっての治療だ。
                              養生なしの治療など砂上の楼閣、焼け石に水。
                              日々のあなたの在り様と一回数分〜十数分の治療。
                              どちらがより影響力が強いかは比べるまでもない。
                              治療で整えた状態をどれだけ維持し、活かせるかは
                              本人の自覚と養生にかかっている。

                              これは至極当然の道理だろう。

                              養生はせずに治療だけで健康になりたい。
                              原因は変えずに結果だけ変えて欲しい。
                              そんな道理にはずれた考えを「無理」という。


                              あなたは症状自体を変えることは出来ない。
                              環境を変えることも難しいだろう。
                              けれど病や疾患の原因となり、

                              増悪因子となる生活習慣を変えてゆくことはできる。
                              そのことをよく理解し、出来ないことや現状を素直に受け入れ、
                              自分に出来ることに根気よく励んで行ける人。
                              症状を通し、治療を通して気づいたこと知りえたことを
                              日常に活かし、医療指導を素直に守り実践される人ほど
                              当然ながら身体の変化は早く、着実に良くなってゆく。


                              症状を憎むこと、治療に依存的になることは
                              必ずあなたを根本的治癒から遠ざけるだろう。



                              あなたに危険を知らせてくれる友達を
                              あなたを助けようと働いてくれている友達を大切にしよう。
                              危険がなくなり、助ける必要がなくなれば
                              その友達は出しゃばってはこないのだから。



                              『人生は一度っきりだから
                                 生まれ変わるなら 生きてるうちに』
                                長渕剛「人生はラララ・・・」より


                              加古川の根本治療専門院  鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/
                               

                              | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 07:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
                              鯉のぼり
                              0

                                本日は端午の節句。
                                こいのぼりを揚げている家は少なくなったが、
                                逞しく育って欲しいという願いは
                                昔と変わるまい。
                                けれど少々気がかりなことがある。

                                当院に来院する小学生〜中学生の子供らの事だ。
                                これが子供の身体かと思うほど硬い子が多いのだ。
                                ストレスや病の影響によるものというより、
                                成長期に身体を使いなさ過ぎた結果としての運動器の硬さだ。

                                小学生になっても土踏まずが殆ど形成されていないベタ足。
                                足の指が地につかない浮き指や外反母趾や内反小趾。
                                足指を思うように開けない。動かせない。
                                踵を揃えて足底をつけたまましゃがめない・・・etc。

                                自分が子供の頃には先ず考えられなかった異常な硬さだ。
                                当時も身体が硬い子はもちろんいたが、それは上記のようなことは
                                皆当たり前にできることを前提としての硬さだ。

                                ただ身体をよく動かしてさえいれば良いかということではない。
                                スポーツを良く行っている子でも同様の症状(あえて症状と呼ぶ)を
                                抱えている子は少なくない。
                                競技特有の動きは出来ても当たり前に出来る筈の基本的な
                                身体の使い方、多様な身体使いが出来ないということだ。

                                一つは、生活様式が欧米化され、和室が減り、和式便所が減り、
                                正座やしゃがむという足・膝・股・腰仙関節を深く曲げ伸ばしする
                                機会が著しく少なくなって、下半身の柔軟性を自然に養うことが出来ない。

                                一つは、ゲーム機などの内遊びが増え、
                                治安上の問題だとか空き地など遊ぶ場の減少により、
                                外遊びという身体を多様に使う遊びをしなくなったためだろう。
                                外で遊ぶにせよ、平坦でない地道や田んぼ、山・川など、
                                多用な動きを求められる場所ではなく、
                                アスファルトや整備された公園・コートなど
                                身体への負担のない単調な動きだけでやり過ごせる場でしか
                                殆ど遊べていない。
                                しかも、高機能なシューズが広まり、繊細に身体を使う必要性まで
                                奪われてしまっている。

                                そんな子供たちの身体の異様な硬さが気になっていたところ、
                                NHKの「クローズアップ現代」でも
                                ロコモティブ・シンドローム(運動器症候群)が
                                小・中学生の間でも広がってきていると報告されていた。


                                運動器症候群とは老化や運動不足による
                                骨・筋・関節の弱化・硬化により、様々な動作が困難になり、
                                要介護状態へつながる深刻な病だ。
                                それが大人になってから起こるのではなく、
                                身体を作ってゆく大切な成長期に起こっているということは
                                とても深刻な状況だ。
                                単に「私、身体が硬いんです」なんて笑っていられる状況ではない。

                                番組の中では、転倒時にちょっと両手を着いただけで
                                両手首を骨折してしまった中学生が紹介されていた。
                                肩や肘や手首や指ほか身体全体を瞬間的に柔らかく、
                                緊急時にも柔らかく、程よく力を抜いて身体を
                                制御する感覚が育っていれば、両手首同時に骨折なんて
                                先ずありえないことだ。
                                骨自体の弱さもさることながら、そのような感覚自体が育っていないことが
                                何より危険であり、深刻だといえる。

                                筋肉や骨を鍛えたり、柔軟性を上げたりすることは鍛錬によって可能だが、
                                そのような感覚自体は特に外遊びの中でしか養えないように思う。
                                複雑なルールによって動きを制限されるスポーツではなく、
                                鬼ごっこやかくれんぼ、以前触れた「ぼんさんが屁をこいた」など
                                単純な決め事の中で、多様な場面・条件に柔軟に身体を使うこと、
                                筋力のまだ発達していない、大きな怪我につながりにくいうちに、
                                人とぶつかったり、転倒したりすることの中でしか
                                なかなか養えないのではないだろうか。

                                環境や時代のせいにしても何の解決にもならない。
                                お父さん、お母さんには子供たちを内遊びに向かわせるゲーム機や
                                携帯電話などを子供が喜ぶからと徒に与えずに、
                                外遊びの楽しさを伝えてあげて欲しい。


                                『百瀬の滝を 登りなば
                                 忽ち竜に なりぬべき
                                 わが身に似よや 男子と
                                 空に躍るや 鯉のぼり』
                                     作詞 不詳

                                竜となりては天にのぼらんとも、
                                まずは地をしかととらうる足をぞ望み給わんことを。


                                加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/

                                | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 16:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
                                さくら
                                0

                                  ずるずると名残押し気な冬が終わった途端の春爛漫。
                                  あっという間に満開の桜も はやハラハラと散り始めた。
                                  今日は小学校の入学式らしい。
                                  新しい制服に身を包んだ小さな子供たちの顔も
                                  ニコニコと満開だ。

                                  「花曇り 笑顔で駆け出すランドセル」


                                  桜は蕾の頃が好きという人がいるかと思えば、
                                  いやいや満開の時が良いという人もいるし、
                                  やっぱり散り際こその美しさでしょうという人もいる。
                                  新緑の桜が、という人もいるだろう。

                                  無論どの時期も美しいし、趣きもそれぞれ。
                                  人により好き好きがあって当然だ。
                                  けれどたとえば「散り際こそが桜だ」と
                                  ほかの美しさを認めないとしたらどうだろう。
                                  世界を狭めるだけでしかない。


                                  「私は気が短いから」
                                  「私はこうやってきたから」
                                  「どうせ私は・・・だから」
                                  「これが私らしさだから」

                                  そんな風に自分を限って、自分を狭めて、自分の可能性を否定しながら、
                                  「健康になりたい、変わりたい」と訴える方が少なくない。
                                  けれど自分を変えられるのは自分だけだ。
                                  他人が他人を変えるなんて容易なことではない。
                                  就中「変われやしない」「変われるはずがない」と
                                  思い込んでいる人を変えるのは。


                                  「治すのは医者や治療家の仕事であり責任。」
                                  そんな風に思ってはいないだろうか。
                                  だとしたらそれは大きな間違い。
                                  「治す手助けをするのが医者や治療家の為事であり責任。」なのであって、
                                  治すのはご本人であり、自分の心身の責任は基本的に本人が負うものだ。

                                  ツボ(経穴)を取り鍼をすれば身体が変化する。
                                  その変化は術者の力ではない。
                                  はりという僅かな働きかけに身体が応えてくれた証拠であり、
                                  患者さん本人の力以外の何ものでもない。
                                  薬の毒性や外科手術という侵襲的働きかけでさえ、
                                  それを治癒への刺激として受け止め変換するのは本人の力ではないか。

                                  死体に鍼をしても何も変化はしない。
                                  生きているからこそ治療が有効なのであり、
                                  医学は生きているあなたの身体への信頼の上に成り立っている。
                                  本人が自分の身体を信頼しなければ、
                                  良い治療が成り立つ筈もない。


                                  「授業には出ます。勉強はしません。でも成績は上げてください」。
                                  それは道理に外れた無茶な発想だろう。
                                  けれど兎角医療に対してはそのような
                                  不合理な期待を抱いている人は案外多いのだ。

                                  「治療は受けます。養生はしません。治して下さい。」
                                  心当たりはないだろうか。


                                  自分と向き合い、原因から目を逸らさない。
                                  医療指導や助言に耳を傾ける。
                                  少しづつでも養生に励む。

                                  それは出来ない言い訳を並べる人、
                                  「自分は〜だから」と
                                  自分への悪しき先入観に縛られている人には出来ない。
                                  今の自分の現状を悲観楽観に偏らず素直に受け止め、
                                  自ら変わろうと思える自分への信頼感なくしては
                                  出来ない相談だ。


                                  すべては縁起。
                                  一切は関係性の中にあり、一切は移り変わるということだ。
                                  縁起自体に良い悪いはない。
                                  良い悪いと価値判断し、とらわれ迷う心があるだけだ。

                                  「変われやしない」と思い込む心があっても
                                  何も変わらないということはなく、実際には心身は変わっている。
                                  より意固地でより卑屈でより窮屈なあなたに。

                                  慢性的にしんどいあなたが年々しんどくなるのはそのためだ。
                                  「何もしていないのに肩が凝る」「何もしていないのに・・・」
                                  何もしていないというその在り方の中に問題があることを
                                  見つめ改善してゆかなければ、それは塵芥のように積もり、
                                  あなたの心や身体を益々しんどく蝕んでゆくだろう。
                                  少しづつ、けれど確実に、着々と。

                                  「きっと変われる、変わろう」と自分を信頼することで
                                  あなたはきっと上手く変わってゆくことができる。
                                  理想のあなたに近づくことができる。
                                  「どうせ私は・・・」と自らを限り、信頼しないことで
                                  あなたは理想から遠く変わってゆくこともできる。


                                  すべては無常。
                                  可能性に満ちた世界。
                                  どの道を選ぶか、選ばないかは自分次第だ。



                                  『散る桜 残る桜も 散る桜』
                                          良寛(真偽不定)


                                  加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/

                                  | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 10:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
                                  チューニング
                                  0

                                    『どれだけ待たせる気じゃ!!
                                     責任者呼んで来い!!』


                                    例えばあなたが食堂で
                                    友人やご家族と楽しい時間を過ごしている時、
                                    こんな怒声がいきなり聞こえてきたら、
                                    あなたは何を感じるだろう。

                                    店内の空気が一瞬で重く固まり張り詰めるのを感じるかもしれない。
                                    嫌な緊張が身体を強張らせ、息が詰まるのを感じるかもしれない。
                                    だとしたらそれは正常な反応。
                                    人体は怒りや争いごとに対して防御反応として身体を緊張させる。
                                    不快に感じて当然だ。

                                    店内や街中で上記のように、
                                    或いは半狂乱で子供に怒鳴り散らしている人は、
                                    自分の感情を吐き出すのに夢中で
                                    自分のその行為が周囲を不快にさせていることなど
                                    気づいてもいないだろう。

                                    「泣く子より怒鳴るあんたがやかましい」


                                    口を開けば陰口ばかりという人もいる。
                                    誰かの悪口を言ったり耳にしたりすることは基本的に不快なことだ。
                                    けれど陰口好きな人は陰口を聞いたり耳にすることが楽しく、
                                    ストレス発散になっている。

                                    陰口が嫌いな人はそんな人の傍にいるのは不快なので距離を置く。
                                    結果、陰口好きな人の周囲には陰口好きが集まるものだ。


                                    相手が迷惑して何度も止めるように忠告しても
                                    「自分の楽しみだから」とその迷惑行為を平気で続ける輩もいる。
                                    相手の苦しみより自分の楽しみが大事なのだから、もはや救いがたい。

                                    『己の欲せざる所、人に施すことな勿(な)かれ。』
                                             論語 衛霊公第十五の二十四

                                    自分がされて嬉しいことでも他人にとっては嫌なことも勿論ある。


                                    普段耳が遠いのに自分の陰口だけは聞こえるという人もいるし、
                                    他人の不幸は蜜の味という悲しい御仁もいる。
                                    女性週刊誌やワイドショー好きという物見高い人はご用心願いたい。

                                    因みに当院では他人の不幸や災難、不正など論う
                                    女性週刊誌の類は置いていない。
                                    読む方の気も院の気も淀み下がり、
                                    治療の「場」を壊してしまうから。


                                    さて、怒りや悲しみ、不安や不満、怨みに嫉み、妬みに羨み・・・。
                                    そんな負の感情、情緒の偏重は病に繋がる。
                                    負の感情は身体を硬く、呼吸を浅くさせ、
                                    心身の不調和を招くのだから通常は不快に感じるものだが、
                                    その状態が当たり前になって不快と感じられていない人も少なくない。
                                    肩こりなどの付随症状自体を不快に感じることはあっても、
                                    精神的偏重自体が問題であることを自覚している方は
                                    意外と少ないのだ。

                                    結果ストレスを発散したい、解消させて欲しいとは思っても
                                    ストレスを受けにくい自分に生まれ変わろうという発想は乏しくなる。


                                    不快なものに感覚のアンテナが合ってしまっている人、
                                    不快であるはずのものを心地よいと感じてしまっている人。
                                    負の波長にばかり心が合ってしまい、
                                    不幸探しが習慣になっている人。
                                    そんな人は心の調律(チューニング)が狂ってしまっているとも言える。

                                    身体が改善してゆくことより、残った症状や記憶の中の症状に
                                    焦点が合ってしまっている人も同様に危うい心のチューニング状態。
                                    雑音しか入らないラジオ放送ばかり探しているようなものだ。


                                    バイオリンの名器ストラディバリウスでも
                                    狂ったチューニング状態ではどんな音楽も奏でられないように
                                    心身の調和を損なっている状態では、
                                    心身の潜在力が充分に発揮される筈もない。


                                    東洋医学的鍼灸治療(漢方鍼灸)は心身一如の立場を基本として、
                                    精神を内包する「内蔵」の調整をする治療法。
                                    当然精神状態にも影響を与える。
                                    結果、うつ状態やパニック障害などの改善はもちろん、
                                    イライラや不安が解消し、落ち着いた清々しい気分も訪れるし、
                                    抑圧していた感情が溢れだして訳も分からずひとしきり泣いた後、
                                    すっきりした笑顔でお帰りになる方もいる。

                                    けれどその後の治療経過は大きく二つに分かれる。
                                    自分と向き合わず、不養生を改めず、
                                    整えた状態を崩してまた同じ次元から治療することになる人と
                                    治療を通して自分と向き合い、
                                    改めるべきを改め、整えた状態を出来るだけ保った上で
                                    治療を積み重ねることで、より健康に元気になっていく人だ。


                                    積み重ねてゆく治療を「焼け石に水」にするかどうか。
                                    命を潤す水とするか、それとも不養生の尻拭いとするか。
                                    それはご本人の自覚と実践にかかっている。


                                    あなたの心はどんな波長にチューニングされているだろうか。


                                    加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ  http://sinq-kisaragi.net/

                                    | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 16:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
                                    ぼんさんとだるまさん
                                    0

                                      『坊(ボン)さんが〜屁ぇをこいた!』

                                      『こいた!』の『た!』で鬼が振り向く。
                                      瞬間、皆が石になる。

                                      「誰か動いていないか・・・」
                                      鬼がジッと舐るように見まわす。
                                      皆は息を潜めて固まっている。
                                      鬼が前を向きなおして、また唱え始める。
                                      『ボンさんが〜屁をこい〜』

                                      抜き足差し足忍び足。
                                      そろりそろりと忍び寄る。
                                      気取られぬよう間を詰める。
                                      するするすると間を盗む。

                                      鬼が振り向き、
                                      『た!』っと睨む。

                                      皆が一斉、石化する。
                                      どどっと汗が溢れだす。
                                      脈打つ鼓動が耳になる。
                                      上がった息を押し殺し、鬼の視線をやりすごす・・・。


                                      子供の頃によくやったこの遊び。
                                      『坊んさんが屁をこいた』。
                                      関東では『達磨さんが転んだ』と言うそうな。
                                      お上品なようにも聞こえるが、誰かが転ぶのを笑うより、
                                      屁ぇの方が罪がない。


                                      『は〜じ〜め〜のだい〜いっぽ!!』

                                      で皆が一歩進んで始まるこの遊び。
                                      近頃の子がこの遊びをしているのをついぞ見たことがない。
                                      というより駆け回って遊んでいる子供自体をあまり見かけない。
                                      こないだ外で子供が集まってるのを見かけたが、
                                      座り込んで何やらしている。
                                      見ると指先でピコピコやっている。
                                      みんな集まってピコピコしている。
                                      外で?みんな集まって?
                                      ・・・なんじゃそら・・・。

                                      『動け!身体動かして遊べ!』

                                      そう言ってやりたいところだが、よその子にそうとも言えず、どもならん。
                                      こんなんでええんやろか、日本は。


                                      さてさて侮るなかれ、この遊び。
                                      よく出来た遊びなのだ。

                                      緩急をつけて呪文を唱える鬼の思念を窺いながら、
                                      全身を気配無く動かしたかと思いきや
                                      一瞬で石像のように身を固める。
                                      もっと速く、もっと前へ。
                                      逸る衝動を抑えつつ、鬼との間合いを詰めてゆく。

                                      相手の心を読みながら、自分の心身を制御することが求められる、
                                      なかなかどうして良い遊びではないか。
                                      昔はそうやって知らず知らずのうちに
                                      遊びを通して学んだり、鍛えたりしとったんやなぁ。

                                      電子ゲームで五感は磨けない。
                                      心身を制御する力は養えない。
                                      考え工夫する余地もないから創造力も高まらない。
                                      相手の心を察する必要もない。
                                      安直に『リセット』出来る世界に染まってゆく。


                                      試しにやってみるといい。
                                      そろりそろりと動きつつ、一瞬で全身を固められるかどうか。

                                      日頃身体を左右にゆすってヨタヨタドタバタ歩いている人には
                                      静かに気配無く歩くこと自体が先ず難しい。
                                      何よりピタとは止まれまい。

                                      『働き』のある身体は止まることが出来る。
                                      『働き』のない身体は止まれない、どころかブレまくる。
                                      存外自分の身体は意図したようには制御できないことに気づくだろう。

                                      意識して動いたからこそ、そのように動けない自分に気づくことが出来る。
                                      意識して固まろうとしたからこそ、固まれない自分に気づけるのだ。
                                      実践して初めて気づけることがある。
                                      実践の中でしか学べない、養えないものがある。


                                      当院でも患者さんの状態と状況に合わせ、
                                      エクササイズを伝えることがある。
                                      その時には必ず条件をつける。
                                      いくつかの条件を守りつつ、身体を動かすことは
                                      自分の身体と向き合い理解するには最適にして近道だからだ。

                                      素直に条件を守って実践する人は、
                                      条件通りに動かない自分の身体と直面し、次回課題を持ってやってくる。
                                      『○○が動かないのですが、どのように意識すれば良いですか?』
                                      【○×▽☆※■・・・】とお応えする。
                                      『では、こういう場合はどうですか?』
                                      【×●△※□◇・・・】
                                      『うわ!ほんまや。こんなに変わる!
                                       ちょっと意識を変えただけやのに。
                                       身体って面白いですね!練習します!』


                                      実践するから課題が生まれ、課題があるから修正も出来る。
                                      修正ができるから次の階段を昇ることも出来る。
                                      そうやって主体的に養生や鍛錬に臨むことで、
                                      身体はどんどん変わってゆく。
                                      治療経過も早くなる。

                                      条件を守らず、自分のやりやすいようにやって
                                      『やったつもり』になっても良いことはない。
                                      自分のやりやすいやり方の積み重ねで身体を壊したことを
                                      忘れてはいけない。
                                      ダメな動きを繰り返しても
                                      ダメな動きがより身に染みこんでゆくだけだ。
                                      そして端から実践しない人は・・・・それまでのこと。


                                      今日から4月。新年度。
                                      新入生も新社会人も少々の不安を覚えつつ、
                                      希望に胸を膨らませてワクワクしながら家を出るのだろう。
                                      新しい経験の中で新しい自分を見つけてゆく。

                                      何かを始めるには良いこの季節。
                                      彼らに負けてはいられない。

                                      始めるものが何であれ、
                                      屁ぇをこいても転んでも、
                                      始めなければ始まらぬ。
                                      掛け声かけてさぁ始めよう。

                                      『は〜じ〜め〜の〜だい〜いっぽ!!』



                                      『学んで思わざれば則ち罔し(くらし)、
                                      思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)。』
                                                 論語 為政篇第二

                                      加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/ 

                                      | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 07:20 | comments(2) | trackbacks(0) |
                                      ノクターン
                                      0

                                        子貢曰く、
                                        『貧しくして諂うことなく、富みて驕ることなきは何如。』
                                        子曰く、
                                        『可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、
                                         富みて礼を好むものに若かざるなり。』
                                        子貢曰く、
                                        『詩に云く。
                                        「切るが如く、磋くが如く、琢つが如く、磨くが如し」と。
                                         それ斯れを謂うか。』
                                        子曰く、
                                        『賜や、始めて与に詩を言うべきなり。 
                                          諸に往を告げて来を知るものなり。』
                                                          論語 学而篇 第十五


                                        切磋琢磨。
                                        互いに競い合って磨き合うという意味で広く使われているこの言葉。
                                        本来は技芸や学問、道徳心の向上を目指して己を磨くことを指す。

                                        「諂わない、驕らない」は可ではあるが、
                                        「諂うまい、驕るまい」とするのは貧賤にとらわれているから。
                                        貧賤にとらわれず、貧賤を超越して礼を好み、
                                        道を楽しむ者には及ばない、という孔子の教えに
                                        弟子子貢が判然と詩経の一篇の真意を悟るのだ。

                                        材を切り出し磨き、玉の原石を削り研ぎ、
                                        美しい宝玉を生み出す職人の在り方のように
                                        ただひたむきに精進することこそ尊いのだと。
                                         



                                        2014年世界フィギュアスケート選手権が終わった。
                                        羽生結弦選手と浅田真央選手のペア優勝。
                                        おめでとうございます!

                                        羽生選手は2013年GPファイナル、
                                        ソチオリンピックに続いての世界大会3連覇。
                                        震災に遭い、持病を抱えながらの偉業。
                                        見事というほかない。
                                        「今シーズンは今シーズン」と驕らず、
                                        すでに来季に向け、兜の緒を締めているのも素晴らしい。


                                        ソチオリンピックでの悔しさをぶつけようと
                                        決意して臨んだという浅田真央選手。
                                        そんな強い決意をすると通常は身体が硬く緊張し、
                                        思うように動けなくなるものだ。
                                        現にソチ、ショートでの浅田選手はそうだったろう。

                                        ところが今大会でのパフォーマンスはどうだ。
                                        特にショートプログラム。
                                        「ノクターン」の優しいピアノの音色に溶け込むような舞に
                                        時を忘れてずっと見続けていたいほど、
                                        手先足先まで伸びやかでしなやかでやわらかにして力強く
                                        実に実に美しかった。


                                        強い決意や覚悟によって身体を硬直させてしまうこともあれば、
                                        強い決意に縛られずに自由な身体を保つことも出来る。
                                        病を得ても感謝の心や優しい心を失わない人もいれば、
                                        状況を怨み、運命を呪って心を淀ませ、閉ざす人もいる。


                                        心身一如。
                                        けれど身体の状況にひきづられない心を守ることもできるし、
                                        心の状況にひきづられない身体を保つこともできるということだ。
                                        そしてそれは決して矛盾するものではない。
                                        私たちの心身はそれだけの可能性を秘めているのだ。
                                        浅田選手は見事にそれを表現してみせてくれた。


                                        佐藤信夫コーチ曰く、
                                        浅田選手は我が強く欲の深い選手だという。
                                        その我欲はもっと強くもっと上手くなりたいという
                                        向上心と繋がっている。
                                        我の強さゆえに空回りしたり、失敗することもあるが、
                                        その我の強さ、欲の深さゆえに続けてくることが出来たのだと。


                                        もっと高く深く美しく。
                                        あくなき向上心の前に成長の天井はなく、
                                        人の可能性は無限に開く。
                                        「どうせ私は・・・だから・・・」
                                        悲観的な自分への先入観や言い訳で
                                        その可能性を自ら閉ざす人のいかに多いことか。


                                        姿勢、食習慣、精神習慣。
                                        健康を取り戻すのに必要な努力は
                                        彼女の数十分の一もあれば充分なことがほとんどだ。
                                        ほんの少し、本気で自分と向き合い続けるだけでいいのに・・・。


                                        ノクターンとは夜を想う明け方の心境を表現した曲だという。
                                        夜を偲んでも新しい一日はもう始まっている。
                                        過去を偲ぶのもほどほどに。

                                        切り、磋(みが)き、琢(う)ち、磨(と)ぐ。
                                        ひたむきであるからこそ迎えられる日の出もあるのだから。


                                        加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://kisaragi.net/ 

                                        | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 01:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
                                        色眼鏡
                                        0

                                          『すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
                                            きこえるものは、きこえないものにさわっている。
                                            感じられるものは、感じられないものにさわっている。
                                            おそらく、考えられるものは、考えられないものに
                                            さわっているだろう。』
                                                          ノヴァリス『断章』より 意訳 志村ふくみ『一色一生』より



                                          価値観・常識・知識・経験・先入観・願望・立場・・・。
                                          幾重にも塗り重ねた玉虫色の色眼鏡で私たちは世界を見ている。
                                          私たちはすべての事象を見たいように見ているのであり、
                                          見えたようにしか見えてはいないのだ。


                                          「自分のことは自分がよく分かっている」

                                          それは分かっていると信じているに過ぎない。
                                          或いは未知の世界に触れること、認めたくない真実に触れることに対する
                                          怖れや嫌悪感からくる強がりなのかも知れない。


                                          例えば
                                          「西洋医学は科学的だから信用できるが
                                           東洋医学は非科学的だから信用できない」
                                          と思い込んでいる人がいる。

                                          現実には科学的な証明も説明も出来ないが効果があるので使用している、
                                          という薬や治療法は西洋医学にもザラにあるし、
                                          診断がつかないが取りあえず試しに或いは気休めとして
                                          何らかの薬が処方されるということも珍しくない。
                                          過去の科学的に正しいとされた常識が完全に覆されることも多々ある。
                                          (それが西洋医学の価値を貶めるわけではない)

                                          そのような事実を知っていてもいなくても
                                          「西洋医学は科学的だから信用できる」という安直な考え方自体が
                                          非科学的であることをそう信じている人は思いもしないだろう。


                                          「目に見えないから信じない」という人もいる。

                                          けれど「信じる」ということはその対象はすべて見えないものだ。
                                          見えていないからこそ信じる必要性が生まれ、
                                          見えていないから信じざるを得ない。
                                          見えているならわざわざ信じる必要はないのだから。
                                          そして信じる時はいつでもそう信じたいから信じるものだ。

                                          そうして何かを信じるという信仰も
                                          何かを信じないという信仰も
                                          等しく一つの余計な色となっておのが目を曇らせてゆく。


                                          そんな風にして私たちは生まれて此の方、
                                          せっせせっせと余計な色を塗り重ねては
                                          知らず知らず観えないものを増やしてゆく。

                                          その色眼鏡が役に立っていることもあるだろう。
                                          けれどその色眼鏡が分厚くなるほど
                                          その色眼鏡に頼れば頼るほど
                                          本質的に観えないものは増えてゆく。

                                          言葉も知らない赤子が見る木の葉の緑の輝きは、
                                          「緑」という言葉を知り、
                                          緑に関する記憶や知識に曇った目で見る緑よりも
                                          きっとはるかに美しく豊かであるに違いない。


                                          とはいえ、私たちはこの色眼鏡を完全に外すことなどできない。
                                          けれどその分厚いレンズをより薄く、
                                          その度をより下げてゆくことはできよう。
                                          それには先ず自分が色眼鏡をかけているのだということ、
                                          見えている世界の他にこそ観るべき世界が広がっていることを認め、
                                          見つめてゆくことが必要だ。


                                          東洋医学、殊に鍼灸医学は氣の概念を前提としている。
                                          氣とは生命現象そのものであり、
                                          且つまたそのよってきたる力そのものだ。

                                          目に見えない気だけが氣なのではない。
                                          経絡を流れる気や体表を巡り、外邪を防ぐ衛気と呼ばれる
                                          見えない気も氣だが、血液や脳脊髄液・リンパ液その他の
                                          体液も氣であり、皮膚や筋肉、骨もまた氣なのだ。
                                          氣の密度、性質変化によってその存在の在り方が変わるだけで、
                                          生命現象はすべて氣なのだ。


                                          見え得るものは見えないものに支えられている。


                                          どれだけ科学が進歩し、電子顕微鏡が進化して、
                                          より小さい物質を見られるようになろうと、
                                          どれだけ詳細に科学的に生命現象が解明されていこうと、
                                          ではなぜその細胞が生まれ生きて、生理的に機能しているのか、
                                          その生命現象そのものを支える力は何なのか、
                                          その力はどこからくるのか説明することはできない。

                                          説明することができなくても
                                          あるものはあるのだから仕方がない。

                                          今、自分が生きて呼吸しているという事実は
                                          信じるまでもない現実ではないか。
                                          氣の存在を認めないということは自分が生きていることを認めない、
                                          ということに等しく愚かしい。


                                          信じるか信じないかではなく、感じるか否か、
                                          感じ取れるか否か、認めるか否かの問題でしかない。
                                          見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れて、そして触れずに
                                          そこから得られる情報をどれだけ余すことなく受け止められるか、
                                          という問題であり、それはどれだけ色眼鏡にとらわれないか
                                          ということでもある。



                                          東洋医学の診察法は「望・聞・問・切」という。
                                          触診を意味する「切」は最下位に配されているが
                                          初心においては最も重宝される。
                                          が、より精緻で高度な診察になるほど
                                          やはり「望診」すなわち望んで診る、
                                          診て感じ取ることが重要になってくる。
                                          触れない方がより本質的な問題が観えてきやすいということだ。


                                          触診においても押さえるより触る、触るよりも触れる、
                                          触れるよりも翳す(触れない)方がより深く広く、
                                          より精緻繊細に多くのことを読みとることができる。
                                          手を触れているところ、或いは翳したところから、
                                          手を通して触れていない部分、触れられない部分を観ているのだ。

                                          強い手、硬い手、粗い手で行う触診で得られる情報は少ない。
                                          軽くやわらかに触れてこそ、或いは触れないからこそ、
                                          より深く広く繊細に感じとれるのである。

                                          術者の感覚が繊細になればなるほど強い触診は必要なくなってくる。
                                          患者さんの鈍った感覚に合わせて強めに触診することはあるが、
                                          それは患者さんが自分の身体の状態を知り、変化を感じ取るための
                                          補助として、また感覚を磨くための一助として行う意味合いが強くなる。
                                          だから感じようとしない、自分の身体の状況を理解しようとしない方、
                                          ただぼ〜っと治療を受けている方にはあまり意味がないとも言える。


                                          ともあれ、そうやって術者の感覚が高まってくるほどに、
                                          触診その他の診察技術よりも、観て感じ取る望診の重要性が高まってくる。

                                          書を学んでゆけば、たとえ書けなくても草書が読めるようになるように、
                                          デッサンを積んでゆけば奇天烈な抽象画も観られるようになるように、
                                          見えているもの自体にとらわれず、
                                          見えているものを通して見えないものを観取り、
                                          感じ取ってゆく修練のうちに、徐々に観える眼が養われてゆく。

                                          そしてその眼こそが成長の道標となり、基準となり、
                                          可能性の扉を開いてくれる。


                                          それは何も術者側だけに限らない。
                                          治療を受ける側のあなたも細やかに感じ取ろうと意識していれば、
                                          触診で触れられた手、翳された手を通して自分の身体の状態や反応、
                                          治療前後、或いは治療中の変化をより繊細に感じ取れるように
                                          感覚を磨いてゆくことができる。

                                          繊細な感覚を育ててゆけば、
                                          自ずと感受性も豊かに柔らかに変わってゆく。
                                          不調和に気づき、自ら整えてゆくことも出来るようになる。
                                          今まで観えていなかったものが観え、
                                          聞こえていなかったものが聞こえるようになる。
                                          何気ない日常の変化の中に、幸せや喜びを感受することも
                                          増えてくるだろう。


                                          自分の未熟さ、偏り、鈍さ、至らなさに気づき認めることは、
                                          それはそのまま、あなたの、私の伸び代になる。
                                          色眼鏡の世界に己を限る必要などどこにもない。


                                          見えるものを通して見えないものを観る。
                                          そんな眼が研ぎ澄まされてゆくほどに、その観えるものの先に後ろに
                                          さらに膨大な見えないものがあることも観えてくるようになる。
                                          見えないものを観る眼がより深く広く繊細に磨かれていくほど、
                                          その宇宙もまた無限に広がってゆく。

                                          その果てなき広がりを闇となすか光となすか。
                                          それはそれぞれの在り方次第だ。


                                          見えるものは見えないものにさわっている。
                                          見えないものは観得るべきものにさわっている。



                                          『年毎に 咲くや 吉野の山桜
                                          木を割りて見よ 花の在りかは』
                                                   一休宗純


                                          加古川の根本治療専門院 鍼灸治療院きさらぎ http://sinq-kisaragi.net/

                                           

                                          | 元気の底上げ通信(ほぼ臨床から) | 08:05 | comments(0) | - |